文/河北の大法弟子 寒梅
【明慧日本2012年6月17日】
四、顕示心に用心する
同修にプリンターの使い方を教えていた時、この同修は飲み込みの遅く、やり方がわからなくても、私にそれを聞こうとしませんでした。この時、やっと自分は同修を見くびる心を持っていることに気付きました。内心で同修の事を頭が悪い、努力が足りないと思って、無意識のうちに自分の言葉が同修を傷つけていたかもしれません。この様な考えは実は顕示心なのです。同修たちがうまくできなかったときに、どういう気持ちなのか、私は想像もしませんでした。どうして相手の立場に立って考えられなかったのでしょうか。大法が必要とするのであれば、私は無条件に、代価を求めず同修を援助すべきでした。自分も同修と同じような素人でした。師父のご加護がなければ、私達に何ができたでしょうか。
ある日、1人の同修にパソコンの使い方を教えましたが、その同修はなかなかついてこられず、毎回彼に教えるとき、彼の奥さんが必ず横で私を責めるのでした。私はその場では何も言わずに教え続けましたが、帰宅した後、気分が悪く「私は教える方なのに、どうしてそっちの都合に合わせなければならないのか? 時間がないのは、時間を全部常人の仕事に費やしたからだ。こっちは大法のことで手がいっぱいで、習ったものを飲み込めないのに、私のせいにしないでほしい」と愚痴をこぼしました。
師父は「何かを行なうとき、相手のことを考え、トラブルに遭ったら自分のことを考え」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)、「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」(『精進要旨』「時間との対話」)と説かれました。なぜ、また外に向けて探しているのか、私は心を静めて、法に照らして自分を探さなければならないと思いました。愚痴をこぼしたがる心、自分は同修よりできるという思い込みから生じた顕示心が見えました。これらの良くないものを取り除いたとき、同修の奥さんは二度と私の事を責めなくなりました。
資料点を設ける過程において、厳冬であろうと酷暑であろうと、暗闇の路地であろうと、どんな悪天候でも私は各資料点を回り、一つの資料点を何度も往復することもありました。技術のスキルが上がるにつれ、同修から称賛の声も増えました。そういう時、常に私は顕示する心を警戒します。その心が少しでも現れたら、直ちに取り除きました。ある同修は何度も私のことを褒めましたが、その時、常に師父の「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」(『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」)という教えを思いだしました。私は師父の次の訓戒も銘記しています。「魔があなたのことを褒めてくれたりすることがあります。あなたの次元がどれほど高く、あなたがどんなに高位な大佛であり、大道士であるとか、いかに素晴らしいかなど、いろいろ言ってくれますが、すべて嘘です。本当に高い次元を目指して修煉する人は、いかなる心も捨てなければなりませんので、これらの問題に遭った時は、くれぐれも用心するようにしてください」(『転法輪』)
五、すべてが大法を中心に動いている
師父はこう説かれました。「今という時間は大事に使わなければならず、この時間は弟子たちに残したものです」(『ワシントンDC国際法会での説法』)、「三界内のすべての生命はみな法のためにやってきており、法のために作られ、法のために成されています。中に万事万物も含まれています。この世のすべてはみな大法を中心に動いています。常人がそれを感じ取ることができるかどうかに関わらず、意識的なことであれ、無意識的にやったことであれ、みな大法を中心に動いています」(『二〇〇四年米国西部法会での説法』)
資料点の仕事を協調する時、自分の仕事と資料点の仕事が都合悪く衝突する事が多くありました。私は常に修煉を第一に考え、どんなことも大法の仕事を妨げることはできないと、毎回の衝突で、大法の仕事を優先しました。形としては、家族が代わって常人の仕事をしてくれました。例をあげると、孫の子守りを頼まれたとき、娘の休日は日曜日でなく、婿も日曜日に休みがとれません。それは正常ではないと思い、内に向けて探すと、情が自分を妨げていることが分かりました。子供を大事にしすぎたからです。この情への執着を取り除き、全てが大法に道を譲らなければなりません。正念が現れたら、すぐに婿は日曜日に休みがとれるようになり、娘も仕事を変えて、日曜日が休めるようになりました。孫が幼稚園に入園する歳になり、娘夫婦は朝8時に出勤するため、7時過ぎに子供を幼稚園に連れていくのは少し早すぎるので、私の所に預けて、私が子供を幼稚園に連れていくことになりました。私は毎朝、煉功して正念を発した後、法を学びますので、彼らに邪魔されてはならないと思いました。すると、婿の出勤時間が8時半になり、孫の心配はもう要らなくなり、私はまた元通り、三つの事を行なえるようになりました。
師父が『転法輪』の中で説かれたように、「『修は己にありて、功は師にあり』なのですから、あなたにそういう願望があれば十分です。本当にこのことをやってくれるのは師で、あなたにはとてもそういう力はありません」を実感しました。
最近、師父の新経文『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』と『大法弟子とは何か』を学びました。自分に照らし合わせてみると、私がこれらの基準に達するには、あまりにも遠いのです。特に多くの時間を妄想や、自分の観念や安逸心に妨害されて、修煉の道を正しく歩むことができません。これから、限られた時間の中で、師父が按排して下さった道に沿って、精進して着実に修め、自分の使命を全うし、正真正銘の大法弟子になりたいと思います。
(完)