文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年7月8日】明慧ネットに掲載された同修たちの修煉体験を見ると、邪悪の妨害と迫害に直面し、同修みんなが発正念をしましたが、効果がかなり違うことが分かりました。例えば、警察が家に来て、外に立っている場合、正念を発して堂々と警察を帰らせることができた同修がいますし、発正念により、何かの変化を起こし、例えば、電話が入ってきて、警察が電話に出ているときに脱走できた同修もいます。一方、発正念をしたが、警察に連行されてしまった同修もいます。
また、ひどい病気にかかったように迫害されたときに、強大な正念を発してから直ちに症状をなくした同修がいますし、しばらくの間、発正念を続けて、とうとう乗り越えた同修もいます。一方、発正念の効果が弱くて、結局、病院に行って、さらに貴重な命を旧勢力に奪われた同修もいます。
みんな、同じく師の弟子として、同じ法を学んでいますが、なぜ正念の威力がこんなにも違うのかと考えました。そして、発正念をする目的と動機は、発正念の威力の大きさに影響を及ぼす決定的な要素だと分かりました。『転法輪』に書かれたように、「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」
具体的に言うと、もし、旧勢力の迫害を否定する動機が私的であれば、つまり、自分の利益を守るために迫害されたくないなら(例えば、自分の修煉に悪影響があることを恐れる、苦しみに耐えたくないなど)、発正念をしても効果がないかもしれません。なぜなら、そのときに発して出たのは正念ではなく、せいぜい「求める心」に過ぎないからです。あるいは、邪悪が強いと思ってしまい、恐れる心が重く、自分の正念が役立つのかと心配して、落ち着けない時に、正念の効果に影響を及ぼすでしょう。なぜなら、神の念が足りず、常人の念が多いからです。本当に、完全に師を信じて、法を信じることができれば、より多くの衆生を救い済度するために旧勢力の邪魔を否定する、と発正念をすると、別の空間の邪悪を取り除けるに違いありません。それによって、この空間において、大法弟子を捕らえようとする人が逃げたり、自分の病状が不思議に消えることが起こるはずです。
知り合いの同修が病業の難関を乗り越えるとき、死ぬほど痛いようでした。しかし、彼女はただ「一体、自分自身がまだ取り除いていない執着は何だろうか」と考え込んで、発正念のときにも自分自身が問題あるから迫害されていると思ってしまったので、病状は1カ月以上も続きました。また、他の知り合いの同修は病業の難関に直面して、ある日、突然ひどい病状が現れ、倒れこんで動けなくなりました。2時間経つと、彼女は突然、「まだやるべき大切なことがたくさんあり、私はこのまま横になってはいけません。もちろん、どんな執着があっても、私はすべて取り除きます」という一念がありました。そう考えた彼女は、直ちに、何も起きていないかのように立ち直りました。そして、「旧勢力を否定する一念は山が割れるほど強くなければなりません」と教えてくれました。
それでは、いったいどうすれば、山が割れるほど強い念が持てるのかと考えてみると、個人修煉の出発点から、完全に法を正して人を救い済度する出発点に立たなければなりません。無私無我で旧勢力を否定できてこそ、山が割れるほどの強い念を持つことができます。
ただ個人の体験であり、不適切なところがあれば、慈悲なる指摘をお願いいたします。合掌。