文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年9月15日】私達は修煉の中でたくさんの事に出会います。私達は自分の考え、自分のやり方を重視し、知らず知らずのうちに自己に執着しがちです。
この自己に執着することについて、自分のわずかばかりの考えを話したいと思います。
修めて良くなった部分はすでに師父に隔離されており、残りの部分は良くない現れだと法の中に書かれています。私の見たところでは、この部分は一つの星のようで、良くない部分はそれぞれ黒くなり、全体的に見ると程度の違う金色に見えますが、全部が純金ではありません。
私達が自己に執着すると、自分の空間場がすぐに黒いねばねばの物に覆われてしまい、さらに自分が正しいと思えば思うほど、その黒いものが倍数のように拡大し厚くなります。そして、自分の世界にいる衆生はこの黒い物質に圧迫されて呼吸困難になり、死んでしまう生命もいます。
さらに、自己を実証する心が特に強くなると、邪悪生命は恐ろしいほどに私達の衆生を掴んで虐待します。そして、衆生を害しながら私達に虚像を見せつけ、私達を法から離れる方向へ導き、同修との間に隔てを作ります。いろいろ積み重なって、これらの邪悪は私達の主元神に大法へ誤解させ、最後に非常に汚いところまで主元神を引きずり込んでしまいます。
このようになると、私達のこの空間の現れでは、邪な悟りをしなくても全体から離れてしまい、簡単に肉体や生計の面で迫害されます。
逆に、自己に固守せず肝心なところで自己を放下できるならば、慈悲をもって他人を協力しているうちに、次のような光景が見えました。この空間場は無限な光に覆われて、もともと不純だったところも一瞬でぴかぴかの純粋になり、自分たちの衆生が敬虔に彼らの王を敬います。そして、修めて良くなった部分はもちろん再び隔離され、残りの良くない部分は続けて表面上に現れます。もし、この修煉状態を保っていれば、はやくも基準に到達して、隔離されます。すると、私達の心は本当に透明な状態になり、無限の慈悲たるエネルギーを発しています。神々も頷いて、衆生も感服します。物質は一つの循環状態に成り立ったものであると、私達は法理の中から知りました。私達が自分の考えに執着しなければ、大きい生命体にとって、全体の「血の流れ」がスムーズになり、非常に健康な状態になります。
ここまで見た私は、これからいかなることに対しても厳しくし、法を師にして、自分のやるべきことをしっかり行わなければなりません。こうして初めて、師父の慈悲なる済度を無駄にしないことになります。