【明慧日本2012年9月17日】
三、真に内に向かって探し、全体になる
携帯を使う技術が熟練してきたころ、次第に周りの同修の中にも携帯で真相を伝えたいという人が増えてきました。そこで私は時間を作って使用方法を教えました。年配の同修に対しては根気よく、心を配って教えましたが、若い人に対しては、ちょっと違う教え方になってしまいました。ある日、同年齢の同修に教えた時、この同修は声が大きく、男性のような性格で女らしさが全然見えないため、とても耐え難く感じたのですが、家に帰ってから内に向かって探すと、自分もまさに同じ要素があると気付きました。同修は鏡のように自分自身を映します。なぜ私は嫌な気持ちになったのでしょうか? それは同修の表れの中に自分の変異した要素をみたのです。私はそれが分かり、正念を発して、このよくないものを消滅しました。
ある中年の同修に対して、私はいつも欠点ばかり見ていました。ある日、明慧ネットからダウンロードした新しいメールを転送した時、この同修は長いのは嫌だ、これだけ長いものを誰が見るのかと言いました。この話を聞いて、私はすぐに魔性が現れて、何もしない癖に文句ばかり言うと思いました。私はこの同修に「このメールを携帯に入れるのにどれだけ苦労したか、自分がどれだけ時間を取られたか」と言いました。言っている最中に、自分に人から指摘されたくなく、自分の奉仕を人に認めてほしい心があると気付き、同修と一緒に自分の心を発見し、互いに笑って、隔たりがなくなりました。それから法を実証する活動の中で、私達はいつも相手の問題を善意に指摘し、さらに自分を探し、ともに向上しました。
この間に接した同修の表現は、そのすべてが私自身の為に表れ、師父が私に自分の不足を認識させるためにこの事を利用して、しっかり内に向かって探し、確実に修煉し、もっと衆生を済度するために設けてくださったと私は悟りました。「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。これは修煉上の最も有効な手段であり、大法弟子が修煉する際の特徴です。いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」(『大法弟子とは何か』)
今の私達は真に一体となっており、メールと電話の他に、手紙や資料作成、真相紙幣、対面で真相を伝えるなど様々な手段で人を救い済度しています。時間が足りないと感じて、よく駆け足で移動しています。我々より師父はもっと人を救うことを急いでおられます。師父は我々の為に時間を延ばしておられますが、師父は我々が真の大法弟子になって欲しいのです。
この交流文が完成する前日、私は夢を見ました。夢の中で、私は大きい魔を消滅しました。その魔は強く構えてきましたが、私が「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」と言った途端に、魔は動けなくなり、そして私は魔を消滅しました。これは、何をする時にも法に符合して、始めて大法の威力が現れることを師父が私に啓示されたのだと思いました。師父はいつも我々を見守っておられ、私は確実に前へ進んで、師父の慈悲なる済度を裏切らないように頑張らなければなりません。
(完)