【明慧日本2012年9月23日】昏睡状態のまま手錠でつながれている法輪功修煉者・李洪奎さんの開錠を求める家族に対し、「規定により開錠ができない」と大慶市刑務所第四監区長・朱任山は弁解した。「どの法律のどの規定にあるのですか?」と、更に詰問した李さんの妻の言葉に、朱は黙り込んでいた。怒りが頂点に達した家族は、カメラで脚に掛けられていた手錠と体の傷跡を撮影した。朱は「とっとと消せ! とっとと消せ!」とヒステリーに叫んでいた。家族が写真の削除を拒んでいると、朱らに集中治療室(ICU)から追い出された。
李さんの警官を勤める弟は、義姉が追い出されたのを見て我慢できず、ICUに飛び込んだ。「何年間も会えなかった家族がこんな有様にされた。なのに残された家族が目の前の現実を受け止められるわけがないだろう! この気持ちをよく理解すべきだ!」と怒った。それを聞いた朱が「自分の立場が分かっているのか!」と言い返した。二人は口論し、李さんの弟が「外に出て話そう」と朱に要求したが、離れようとしない朱は1万4千元の小切手を手にして「この費用を負担してもらえるんだな?」と厚かましく家族に聞いた。李さんの妻が「ここに来た時はあんなに元気だったのに、このような有様にして、よくもお金を請求できるわね。主人が無事ならよかっけど、こんなことになるなんて絶対に許せない!」と怒りをあらわにした。
8月14日午後、家族が大慶市第四病院の外科脳手術主治医に手術経過を確認したところ、「手術は順調だった。術後に特に注意しなければいけないのは二度目の出血だ。仮に出血していたら傷口の周りが腫れ上がるはずなのだが、現在のところ再出血の形跡がみられない。このままいけば、一週間の脳水腫期間と二週間の肺感染期を無事過ごせば、三週間後に退院できるだろう」と説明を受けた。
通常だと意識回復までに3日~5日かかるが、李さんは1日半で意識が戻った。それからの15日~17日間も、話ができないことと右半身が動けないこと以外は、驚異のスピードで回復した。毎日回復へ大きく前進し、8月18日にはICUから一般病棟に移っていた。8月20日、心臓、血圧、血液酸素の監視モニターを全部取り外して命の別状はないと診断された。食事の時は口の位置を当て外すものの、自力でスプーンを持って食べられるようになるまで回復した。
8月25日、李さんは人に支えられながら10分間座ることができるようになり、26日には20分間座ることができた。8月25日、主治医が家族に「もうそろそろ退院の準備をしてよい」と伝えた。一週間後のCT検査の結果が問題なければ、退院を待つだけとなっていた。
8月27日朝、主治医が病室を巡回する際に、脳のCT検査の結果により脳水腫はそれ程深刻ではなく、脱水薬物治療をすれば問題ないので退院できるだろうと家族に説明したが、巡回した後、院長が李さんの退院を反対した。
当日午前10時頃、李さんの体温が38度5分まで上昇し、夜6時になると嘔吐し、口から白い泡を噴き始めたことに李さんの息子が気付いた。その時の体温は36度だったが全身がぶるぶると震えて痙攣を起こしていた。李さんの息子が慌ててナースステーションに連絡したところ、「体温が急に下がったのが原因なので、布団をもう一枚重ねるように」と看護士に命じられた。ところが夜8時頃、体温が急激に42度の体温計限界に達して痙攣が止まらなかった。一気に大量の汗をかいたため布団はびっしょり濡れていた。8月28日朝5時14分、李さんの呼吸がだんだん弱まり心臓が止まった。
李さんの不慮の死亡原因について家族が主治医に詰問したところ、医師は「どうなっているんだ! どうなっているんだ! 医者になって以来初めてだ。私も不思議でしょうがない・・・!」と叫び続けた。
李さんが息をひきとるまでずっと点滴は打たれていた。点滴に使用されている薬物について知らされていなかったうえ、当時は死亡形跡が全く見られず、病院からの危篤通知も一度も出されなかったということだ。
大慶市刑務所で十数人の法輪功修煉者が残忍に虐殺された
大慶市刑務所は良い人を悪い人に変え、悪い人を更に悪くする場所として、地元では大慶地獄と呼ばれているという。当局の厳重な封鎖を突破して、民間ルートを通じて伝わってきた情報によると、大慶市刑務所で虐殺された法輪功修煉者の中で、実名が分かっている人だけでも十数名に上るという。41歳の許基善さんは2005年6月7日、板に縛りつけられたまま、大隊長と指導員の指示のもとで、同刑務所の受刑者により、便所に運ばれて拷問を受けた。病院に搬送され応急処置を受けた時にはすでに死亡していた。40歳の袁清江さんは、長期にわたって大慶市刑務所の警察長から残忍な迫害を受けた結果、ガリガリに痩せてしまい、腹部だけが異常に膨れていた。2005年7月23日夜、袁さんは無実を晴らせず他界した。2007年5月31日、法輪功修煉者・周述海さん(35)は刑務所から大慶市第二病院に搬送され、救急治療を行う時にはすでに意識がもうろうとしていた。体はガリガリに痩せていて無念にも救急措置を行った後に死亡した。周述海さんは伊春市・市政府政策研究室に勤務していた。2006年4月に懲役5年6ヵ月の不当判決を言い渡された。
大慶石油管理局の採油七厰に勤めていた法輪功修煉者・朱洪兵さんは7年間、刑務所で迫害を受け続けた。朱さんは大慶市紅衛星刑務所で危篤に陥るまで迫害され、2008年12月29日に外部へ運び出された。そして2009年6月18日、無実を晴らせないまま他界した。火葬された後の朱さんの頭蓋骨は、外側が白く内側は真っ黒だった。骨は深刻な骨粗鬆症が進んでいて、何らかの薬物が使用されたとみられている。
李さんが迫害されて死亡した後の2012年9月5日、大慶市刑務所第四監区長・朱任山がハルビン某病院で点滴を受けている白群さん(李さん妻)を訪ねた。そして、早急に李さんの遺体を火葬するようにと再び家族に要請した。実は、8月28日に白群さんが「主人の遺体は私の署名がない限り如何なる者でも触ってはならない」と、正式に大慶刑務所側に厳重に警告していた。朱はその時、「心配しないで。その意図はよく分かっている」と同意の姿勢を見せた。
それから8日間が経ち、朱は再び入院している家族の病棟を訪ねた(当時、朱さんの家族は、高血圧の二級高度危険病棟に入院し、狭心症、糖尿病、労働能力の検定は三級障害、一部は介護が必要という極めて危篤の状態にあった)。「上級機関に李さんの検死を行ってもらい、もし体内に傷がなければ火葬は問題ない!」と強く要請してきた。
李さんの家族は、大慶市政治法律委員会宛に14箇所の疑問点を明らかにするようにと陳情の手紙を書いた。家族はまた、刑務所のある隊長から「李さんが発作を起こす前に省政法委員会(610弁公室を直轄する組織)の周氏による面談を行った」という話を聞くことができた。李さんの遺体の火葬をこれほど促す理由は、証拠隠滅か真相を隠すためなのだと確信できる。