文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年9月28日】私は幸運な事に1997年に大法を得た古い弟子です。2005年から三つの事をこなしてきているつもりですが、精進している同修に比べれば差が大きいと実感しています。内に向けて探してみたところ、学法がきちんとできていないことが原因だと分かりました。つまり心を込めて学法していないということです。私の理解では問題が起きた時、まず頭に現れる念は法に沿っていなければなりません。今までの体験を一部、下記に述べさせていただきます。
2001年4月、帰宅する時に知人が自分のオートバイに乗せてくれることになりました。その日の道路状況は悪く、途中ある所でオートバイが高くはねてしまい、私の体は遠くに投げ出されました。左目の周りは傷だらけで最も深刻なのは鼻柱の左側で、傷口は指が一本入るほどで、骨がとび出て大量出血し、大怪我をしました。後になって居合わせた人から聞かされましたが、当時は顔がとてもひどかったそうです。事故の直後に現地の郷鎮病院に運ばれて洗浄と縫合処置をしてもらいましたが、それだけでは安心できないとの子供達の意思に従い、更に地区病院に連れて行かれました。
そのまま入院して21日間も学法と煉功ができませんでした。法を得てからずっと毎日欠かさず学法と煉功を続けて、1999の「7.20」以降も、邪悪の勢力からどんなに弾圧されても学法と煉功だけは1日も中断する事はありませんでした。退院後、早速学法と煉功に復帰しましたが、心の中で「これほど大きな事故に遭遇して、師父は本当に私を護ってくださっているのか?」と疑問を抱き始めました。この念は師父に対する最大の不敬だと後になって分かりました。
およそ2カ月後のある夜でした。凉を取る為にベランダの窓を開けっぱなしにして第五式功法(静功)を煉功していた時、ふと目を開けて見てみると目の前のベランダが一面、白い光に覆われているのが見えました。溶接時に発せられる光と同じようにまぶしく、その時は高圧線が電線に接触したせいだと思い、全く気にせず煉功を続けました。しかし翌日よく見ると街に高圧線はどこにもありませんでした。恐らく入院している間に撤去されたのだと思った時、師父がこのような形で私の悟りを開いてくださったとすぐに分かりました。やはり師父はずっと私を護ってくださっていると大変幸せな気分でした。
1999年の「7.20」以降、私はずっと1人で修煉していました。2004年6月の中旬になって、県の同修がやっと私と連絡を取れ、私がまだ修煉を続けていると知った同修は大変喜びました。同修は師父の新経文、「明慧週報」、諸々の資料を持ってわざわざ来てくれました。その時、私は初めて師父が要求された「三つのこと」、旧勢力の妨害、同修が法を実証する為に北京まで陳情に行ったことなどを知りました。
2006年に私はパソコンを購入し、同修が「自由門」のソフトを持って来てくれたため、明慧ネットに接続することができ、初めて外の世界を知り、すべての師父の説法を読むことができるようになりました。それから自宅で小さな花(資料点)を咲かせました。事故から暫く経ったある日の学法で「仮に法輪大法を学んでいなければ、今日ばったり倒れたら、そのまま死んでしまうかも知れないのです」(『転法輪』)を読んだ途端、まさに私のことが書かれているではないかと衝撃が走りました。
もし私が法輪大法を学んでいなければ、この前の事故で頭に大怪我を負ってしまう可能性もありました。目の周りの数箇所の傷口だけでは済まなかったかもしれません。どうして師父に感謝することができなかったのでしょうか? どうしてまだ無事でいる事を感謝できなかったのでしょうか? 反対に師父に対して失礼極まる念が生じてしまいました。それにもかかわらず寛大なる師父は私を許した上、光の現象で私を悟らせてくださいました。振り返れば、もし今まで入念に学法をしていれば、頭の中にこのように間違った考えが生まれて来ないはずでした。
もう一つ例を挙げます。わずか数日前に見た夢でしたが、歩いている道の前方に2匹の毒蛇がいて、怖くなったところで夢から目覚めました。蛇は色欲を指しているので、師父が色欲の心が深い私にご教示くださっていることが分かりました。なぜなら色欲は修煉において、非常に害が大きいからです。同修の体験談によりますと、とにかく何かが起きた時にはまず、排除してくださるように師父にご加持をお願いするそうです。それに比べてどうして私は師父のことを忘れて、師父に与えられた神通力を使って排除することができなかったのかと内に向けて探しました。
それは師父を100パーセント信じているかどうかの問題だと分かりました。私達大法弟子は「五行に居ず 三界を出る」(『転法輪』)大法に成就されている生命なのだと悟り、蛇は三界内の五行で構成されているものなので、その毒で私を傷つけられる訳がありません! まず念が法に沿っていなかった事を深く反省しました。やはり「師を信じ 法を信じる」ということは口先に留まるのではなく、心に入れておかなければなりません。その境界に達する為には心を静めて学法するほかに道はありません。師父が法を伝え始められた当初から「法を学び本を読むことを毎日の必修の課程とすべきである」(『法輪佛法大圓満法』「法輪大法輔導站に対する要求」)と要求しておられます。また全ての各地の説法においても、学法の重要性を強調されてきました。つい最近『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』という経文が発表され、学法の重要性は明らかです。それは師父の大法弟子への慈悲と愛護の現れです。