文/中国の大法弟子 芳茗
【明慧日本2012年10月7日】自分の執着を突き止めたら、すぐに取り除かなければなりません。師父は『精進要旨二』「妨害を排除せよ」の中で、「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」と説かれましたので、私は努力して多くの法を勉強しています。師父は『転法輪』で「一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません」、「街を歩いていて不意に誰かに蹴られた時、まわりに知っている人がいなければ我慢できる」と言う人がいます。それではまだ不十分だ、とわたしは言いたいのです。あなたが最も面子を失いたくない人の前で、誰かがあなたに平手打ちを食らわして、恥をかかすようなことが将来起きるかも知れません。果してあなたはそれにどう対処しますか。果して耐えられるかどうか。一応は耐えられたとしても、内心では落ちつかないようでしたら、それでも駄目です。皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります」と説かれました。
大法弟子としては、無条件に法に同化すべきではありませんか。法の要求に則って常人のものを取り除いて、はじめて神になることができます。それに、常人に少し誤解されても大したことはなく、修煉者は常人を救っており、何が起きても心が動じないはずではありませんか?
今は相手の態度を気にしなくなり、本当に彼を救いたいという慈悲の心を持って、同時に自尊心とメンツを放下して、かわいそうな衆生と対面することができるようになったと思います。私は彼らから遠く離れて、心が彼らのものに動じられなくなったからです。
三、人心と正念
携帯電話から不特定の人に大量の真相メッセージを送ることも私はやっています。ある日、メールを送信した後、受信者から「ありがとう」とメッセージが帰ってきて、私は嬉しくて激励されました。帰ってから横たわっていると、なんと私の携帯にも真相メッセージが届きました。時計を見ると、もう夜の11時過ぎですが、同修はまだ頑張っているのだとわかりました。
自分が先ほど受け取った感謝のメールを思い出して、同修にも激励メールを送ろうと思ったところ、家族(同修)から「人心でやらないでください。例えば、同修が運営している某ウェブサイトは、常人のユーザーをなかなか増やすことができず、拍手喝采しているのはほとんど大法弟子だけです。表面上はとても賑やかに見えますが、何の役に立つのでしょうか? 人心を使わずに、私達は人の済度をしているのですよ」と止められました。
私は携帯電話を置いて、家族の言葉を考えながら内に向けて自分を探してみました。私はどうして夜の11時過ぎにまだ頑張っている同修のことを「お疲れさま」と思うのでしょうか。やはり神聖な衆生を救い済度することを「仕事」と思っており、それは同修が自分の修煉の道を歩んで、威徳を立てていると思っていないからです。その上、人心で苦しいか楽か、良いか悪いかを評価して、修煉者の基点に立って正念で物事を考えていないからです。師父は『二〇〇八年ニューヨーク法会での説法』に「常人が良くないと思っているものは、修煉者、ここから離れようとする生命にとって良いものになります。常人と同じ考えであれば、あなたは永遠に常人のままであり、永遠にここから離れることができません」と説かれました。本当に観念を変えないといけない時が来たと思いました。どんなに小さい念も大法で量り、常人の殻を抜け出していきたいと思います。
(完)