文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年10月27日】中国大陸にいる同修はみな悪党文化に洗脳され、無神論に騙されて多くの精進しない同修および真に神を信じない同修は、煉功すると健康になることは信じるものの、修煉を通じて神に成ることは信じないか半信半疑の状態です。善悪はともに報いがあることを信じない同修もいます。この同修は、迫害されたら師父が神の技を使って助けてくれないために自分が苦を嘗めた、福に報われないと思って信じなくなり、精進しなくなったり修煉を放棄する人もいます。
このすべては修煉への認識が間違っているので、当然修煉の厳粛性もわからないはずです。師父はこれだけ宇宙の真相を説いて下さり、修煉を通じてどれだけの栄光を得られ、修煉して成就しないとどれだけ悲惨な結末になるかを明確に教えて下さいました。しかし、多くの修煉者は師父の慈悲を思わず、師父の勧告を聞き流してしまいます。自分自身が真に修煉者だと思わなければ、師父はどうしようもないのです。師父は真の修煉者のみ加護されますので、あなたが修煉しないならば旧勢力に引っ張られても、それは自分の選択なので、師父も助けることができません。しかし師父は大いなるご慈悲をもって修煉者にチャンスを与えておられます。この大事なチャンスを捉えて、真に心から修煉の道を歩んでこの機縁を失わないようにしてください。このすべては自分が法理の上で向上して成り立つのであり、単に常人に真相を伝え、チラシを配ることではありません。
新たに修煉に戻ってきた同修、多くの精進していない同修は以前の過ちを補う気持から、人心を抱えたままで三つのことをしようとしないでください。心を静めて、多く学法し、法理上で向上することが大事です。師父は『転法輪』の中で「修煉さえすれば、固い決意で修煉すれば、失ったものがみな取り戻せます」と、説かれました。
実は修煉している多くの同修も、修煉への認識がはっきりしていません。一番目立つ部分は、真に内に向けて自分のことを探すことができず、法理に基づいて法を認識できないことです。大法のことをいかに多くやっても自分の修煉はついてこないのです。私たちの修煉の向上が一番重要です。私たちが真に法理に基づいて向上してから、さらに『転法輪』を読むと、それはすべて私たちにいかに修煉をするか、一人の人間がどうやって神に成り、どうやって最高の果位にまで円満成就するかを教えていると気付くはずです。
どうして精進するかを理解できないならば、師父の『精進要旨』と『精進要旨二』を繰り返して読んでください。『精進要旨』は精進の秘訣を教えてくれるものだと、ある同修は言いました。
もう一つ、全体について私はこのように認識しています。精進や不精進、正しい悟りや邪な悟りにもかかわらずすべては一つの全体です。師父は最初から区別して私たちを見ておられません,ただ私たち自身が修煉の道を選ぶだけなのです。しっかりできているか、できていないか、堅持しているか放棄しているかにかかわらず、全体の外に立っていては修煉者とはいえません,修煉の中にいなければ、どうやって修煉の実質を認識できるでしょうか。
刑務所の中にいる法輪功修煉者を転向させるために、警察も『転法輪』とすべての経文を読んでいます。しかし、師父はこれらの人を修煉者として見ておられません。彼らは「学法」しても自分の人生の道を変えられず、病気になることも不幸に遭うことも避けられないのです。学法しても法を得られません。私たちは法を得ることができ、師父に弟子として認められているのに、なぜ大事にしないのでしょうか? 精進しましょう。師父の経文を用いて、皆さんと分かち合いたいと思います。「法を実証しながら修煉するというこの最も偉大な栄光が瞬く間に去っていく短い修煉の間に、なぜもっと精進せずにいられるのでしょうか?」(『最後になればなるほど、精進すべき』)
以上は私個人の認識であり、不足の部分はご指摘ください。
(完)