文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年11月7日】同修達は交流をする時、よくこのような会話をします。「今日、あなたは学法をしましたか?」「しました」 「何講を読みましたか?」「1講です」時には2講、もしくはもっと多く答える場合もあります。この会話は何らおかしいところがないように聞こえますが、よく考えると、会話の中でどれほど学法をしたかを精進の程度を測る基準にしているのかが分かります。10年も修煉して、私もずっとこのように「測っていました」修煉に精進しているかどうかは、毎日どれぐらい法を勉強したかを見ればすぐ分かると、ずっと私は思っていました。このような観念が形成された後に、私は毎日『転法輪』を何講勉強したかをとても重要視して、もしその日に1講しか勉強していない、または1講も読んでいなければ、同修の前で恥ずかしくなりました。もし2講を勉強したならば、同修の前で自信満々になって、もし3、4講も学んだと言ったら、同修も感心して羨望のまなざしで私を見ます。その時自分もとても満足します。
だんだんと、毎日学法をする前に自分に「今日は〇講を勉強したい」と目標を決めるようになりました。こうすると学法することは時間と競って任務を完成することになってしまって、さらに目標以上に任務を達成したくなります。そして学法の質よりも量を求め、学法の形式ばかり重視するようになりがちです。
このような現状を変えるように努力しましたが、ずっと今年の9月まで、効果は非常に薄かったのです。9月にもう一度『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』を読みました。中にこのような一段がありました。「ご存知のように、法の勉強において、多くの地区でいくつかの問題が表れました。どういう問題でしょうか? 一部の地区は形式的になってしまいました。『転法輪』を読むとき、考えが集中しておらず、ほかの事を考えてしまい、修煉に専念することができない人がいます。これは時間を浪費しているのに等しいのです。時間の浪費だけでなく、本来向上すべきところですが、考えるべきではない問題や事を考えてしまい、向上どころか、下降してしまいました。法をしっかり勉強できなければ、多くのことをしっかり行なうことができません」
以前、この部分をもちろん学んだことがありますが、その時は心を深く打たれることはなく、9月に再び読んだらとても感慨深くなりました。この部分は、専念して学法することの重要性を講じられました。専念することはこんなに重要なのに、どうして多くの同修は重視していなかったのでしょうか? この問題に思いついたら、一瞬で「そうだ。観念だ」とひらめきました。観念が私に学法する時に専念することを妨げて、学法の量で自分の修煉状況を評価させています。この観念を捨ててから、私の学法の状態は急に改善できました。専念することを一番大切なことにして、学法の量を達成しなければならないという心理的な圧力を除去して、心を静めてゆっくり読んで、何かを悟りたいと追求せずに、ただ文字の表面の意味を理解すれば良いのです。こうなると、以前と同じ時間をかけても学法の量は少なくなったのですが、効果は以前より良くなりました。日々新しい悟りがあって、とても充実感があります。これは無理にすることでなく、内心からそのようにしたいためにやっとやり遂げることです。本当に学法する時に専念できれば、同修に「今日は『転法輪』を何講学びましたか」と聞かれた時、「今日は〇時間をかけて学法しました」と答えれば良いと思います。
法を勉強する時に専念できないもう一つの原因とは、自分自身が人為的に妨害をつくることです。例えば学法する前、あるいはする途中に、「後で雨が降る」とか、「掛け布団はまだ外に出したままだ」とか、「今日は遅くまでみんなと一緒に学法できない。子供を迎えに行かなくちゃ」とか、「今日はすでに〇〇さんと約束して、学法が終わったらショッピングに行く」とか、「学法が終わったら同修の家に行って、大法を実証するプロジェクトの打ち合わせがある」などなど。いったんこれらの雑念が生じると、学法の全過程において専念できないようにあなたを邪魔します。
大法弟子として学法する前とする途中に、放下すべき心をすべて放下して、法を学ぶ前にするべき事をやり終えて、やり終えられないことを事前に一段落させて、学法の妨害になる原因を消去してください。そうすると、はじめて心を静めて学法できて、心を静めればはじめて学法に専念できるからです。
学法に専念するには、観念を変えることと妨害を排除することが大事です。観念と妨害は自分の主観的な思想から来たものです。また、外在の要素が学法の集中と専念にある程度役に立つと思うので、下記に例を挙げたいと思います。
一つは読む時の速度です。もし読む速度を「速い」「中くらい」「遅い」の三段階に分けるなら、学法する時は遅い速度が相応しいと思います。法を読む時、文字の意味を理解することが目的であるため、もし読む速度が速すぎると、前の文の意味をまだ理解していないのに、次の文は口から出てしまうことになりがちです。低速で読めば、もっと充分な時間をかけて意味を理解することができます。遅すぎて読むことさえ成り立たないほど遅くしなければ良いと、私は思います。一人で学法する場合、意味を理解していない部分に対して、理解できるまでもう一回、または数回読んでも良いと思います。そうすれば、きっと良い効果が現れると思います。学法の速度が遅いと心配しないでください。そのような心配自身も一種の観念で、専念して法を心に刻むことこそ最も重要なことです。
もう一つははっきりと発音することです。みんなで一緒に学法をする時、自分が読み上げて同修たちも聞いているので、きれいに発音することが大事です。はっきりときれいにすることで、標準的な発音となり、それもまた学法に専念する過程なのです。しかし気を散らして、自分はちゃんと読めているか、同修たちはどう評価しているのかと考えてはいけません。考えると学法を妨害してしまいます。ひたすら心を静めてこの基準で読んで、全ての注意力を学法に集中すれば、きっと予想もできない収穫があると思います。