文/中国の大法弟子 清蓮
【明慧日本2012年11月10日】ある年、友人の子供が優秀な成績で当地の一流大学に合格し、家族全員が喜びました。子供の努力が報われ、親が心血を注いだことも無駄ではなく、その友人は周囲の同僚、上司、知り合い及び近隣から羨ましがられました。しかし翌年、その子供は退学になりました。理由は、遊ぶばかりで多くの科目が不合格だったからだそうです。隣人の子供も同じく、ネットゲームに夢中になり、クラスメートが卒業する頃、彼は留年になりました。貴重な時間を失っただけでなく、本人自身も人に合わせる顔がありません。親は悲しみ、子供の意気地のなさに怒りを覚えるしかありません。
自分を振り返ってみれば、私も遊び好きですが、その遊びは麻雀やポーカー、ダンスなどでなく、ネットゲームに夢中です。大学に通うことと修煉を比べることは出来ませんが、修煉は万古にない機縁なのに、私はそれを大事にしていませんでした。
2009年、家でネットが使えるようになってから、私は多くの貴重な時間を浪費しただけでなく、心が落ち着かず、時間があればネットゲームで遊び、知らないうちに数時間を費やし、その後後悔しましたが、ゲーム遊びをやめようと決心しても束の間だけでした。常人の言葉を借りれば、これは「道楽に深入りして志を失ってしまう」というのですが、私はこの点を明白に分かっていても、なかなか自分をコントロールできませんでした。周囲の同修に聞いてみると、私と同じ状況にいる人もいて、深夜まで遊んだあと、その後時間の浪費を後悔するそうです。
友人の子供の事から私は目覚めました。常人の教訓を戒めとすべきです。修煉において留年や再テストなどはなく、機縁を失えば二度と得ることはできません。私は心を静め、自分の遊び好きの心の根源を探してみました。ネットゲームは全てが仮想で、実質的な賭博でなくても、ゲームで勝利したい心は欲望ではないでしょうか? ここに勝ちたい心、安逸心、利益を追求する心のなどなどが見られます。
知り合いの同修は非常に精進し、実修においてもよくできていて、3年前の彼女は顔の肌のきめが細かく、色も白くなって赤みがさしていました。当時の彼女は毎日大量に学法し、三つのことを実行してきました。しかし、この数年、彼女は非常に忙しくなり、家庭の内外の多くの事、例えば会社勤務、孫の世話、料理などのすべてを自分で背負い、私は夢の中でも彼女のこの状況を見ました。しかし、三つのことを実行する際、彼女は非常に苦労しているようで、時には自分の睡眠時間まで削っています。一度、もしかして私達は旧勢力が按排した道を歩んでいるのではないかと交流したところ、彼女はあまり気に止めていないようでした。私も実修に励まず、遊び心を放任してしまいました。時には、その遊びはちょっとした休憩だと言い聞かせ、自分を慰めました。師父は次のように説かれています。「タバコを吸うと気持ちがしゃきっとすると言う人がいますが、それは自らを欺き人を欺く言い方です」(『転法輪』)
最近、私達は再び交流して同じ認識に至りました。2人とも旧勢力が按排した道を歩んでいました。私の場合、遊び好きで安逸心が強いので、旧勢力は私に心が法にあらずのようにさせ、私の時間を全て消耗させました。自分で自分をコントロールし、制御しなければその按排に嵌ってしまいます。同修は情に弱いので、ずっと忙しくさせられ、法に触れる時間がなく、三つのことを実行する時間もなく、しまいには自分で自分を駄目にしてしまいます。これが旧勢力の目的と険悪な魂胆です。しかし、その状況は私達自身の執着によって造られたものです。三つのことを実行しても、同修の場合は足踏み状態だと感じ、私も自分が少しも昇華していないように感じました。
師父の教えにあるように、「現代社会は七情六欲ではなく、七十情、六十欲以上あり、そうではありませんか?様々な欲望があります」(『大法弟子とは何か』)のとおりです。遊んで何を得られるでしょうか? 時間を浪費する以外、歳月を無駄にし、生命を浪費することに等しいのです。常人は遊びで人生を棒に振り、修煉者にとっては罪を犯すことになります。なぜなら、よく修めているかどうかは個人の円満成就の問題に留まりません。師父が延長して下さった時間は自分を良く修め、衆生を救い済度する貴重な時間です。今の一日は矢のように過ぎ去り、何もしていないうちに一日が終わってしまい、それでも時間を大事にしていません。
この遊びも執着であり、欲望であり、われわれ修煉者の意志を削り取っています。旧勢力は時々刻々私達の漏れを探し、見つければそれを拡大、増強し、私達がそこから抜け出ることができなくなるようにしています。遊び好きと安逸心は精進していない原因の一つです。師父の慈悲なる済度に面目がなく、本当にこれを直さなければなりません。
同時に、いかにして正しく家庭と修煉の間のバランスを取るかについても私達は認識しました。それは極端に走ってはならず、かかしのように何に対しても動かないようでも駄目です。常人の中で修煉している私達は、師父の教え通り、どこへ行っても良い人でなければならず、各方面のすべてをしっかり行わなければなりません。何にも興味を示さず、何もしないのでは、常人の家族も理解できないので、大法に対して悪い印象を抱いてしまう可能性があります。家で何もしない同修がいますが、お寺の住職にでもなるつもりでしょうか? そうすべきではありません。反対に、情に溺れて何でも背負い、常人に依頼心を抱かせれば、旧勢力に隙を見せてしまいます。常人の理で考えても、家事などは家族全員が分担してもいいのです。時に私達はどうすべきかが知らない訳ではなく、執着してしまうからです。三つのことを中心にして、自分が法を正す時期の大法弟子であることを忘れず、自分の責任と衆生の期待を忘れず、しっかりとやっていくべきです。どうか、私と同じような執着を持つ同修達も、問題を重視しこれ以上ゲーム遊びなどに時間を費やさないで下さい。
以上、法に沿わない認識があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。