文/程平
【明慧日本2012年12月17日】明慧ネットに掲載された『法を正す最後の時期に見た他空間の光景 』という文章の中に、同修が自分の次元で見た、師父が大法弟子を加護するためになされた巨大な負担、そして全ての大法弟子に師父の慈悲なる済度に背かないよう希望されている下りがあります。また文中に「数人の神が大きな声で、師父に『もう時間です』と話しかけ、師父は動きを止めていらっしゃり・・・」という一文を見た多くの同修は、様々な考えを持つようになったようです。
漸悟状態にいる大法弟子はそれぞれの次元、それぞれの空間場内に他空間の多くの光景が見えています。例えば、時間の緊迫や、大淘汰の始まりなどです。私達がこれらの光景を見て、あるいは聞いて、第一に考えたことは何だったでしょうか? 「もう時間です」を聞いて、私達は何を思ったのでしょうか?
ある同修は思いました。「子供はどうすればいいですか? 教育費はまだ十分に貯めていません。マイホームはどうすればいいですか? 銀行のローンはまだ全部返済していません」。ある同修は食品、ロウソクなどを貯め始めました・・・。これらの執着はあまりにも明白で、私達は大法弟子として自問すべきです。修煉の真の意義が分かっていますか? 法を正す意義が分かっていますか? 長年修煉してきても、未だに心は常人の中にあるのではないでしょうか?
師父はおっしゃいました。「圓満成就したら、まだあれこれのことがあるから、どうしたらいいのかと言う人がいます。この話を口にした時、神たちはどのようにこの学習者を見ているかをご存知でしょうか?(皆笑って) それでも圓満成就したいのでしょうか? ご存知でしょうか? 心に圓満成就を考えている人は圓満成就することができません。まして圓満成就したいのに、まだ情と財に対する執着を放下することができない人です」(『二〇〇三年旧正月での説法』)
ある同修は人から「もうすぐ終わりです」と聞くと、興奮し、かすかに喜びながら、やっとここまで辿り着いたと思い始めます。しかし、自分の修煉状況はいかなるものか、また、救われていない衆生がどうなるのかを考えたことがありますか? 安逸心に駆られてこれ以上の迫害の重圧を受けたくなく、「円満成就の福を得て、もう永遠に苦労する必要ない」と喜ぶと同時に、法を正す目的を軽視し、師父のお教えや師父が私達の代わりに耐えられている巨大な業力、救われていない衆生が迎える恐ろしい未来などを考えもしなくなりました。
ある同修には強い歓喜心が現れ、安全問題を気にもしなくなりました。
また、ある同修が思ったのは、「私達が手掛けているプロジェクトはまだ半分しかやり終えておらず、もう時間だから、やった部分が無駄になるのではないですか?」。 このような心理状態も深く探っていくと、「無駄になった」という考えはやはり利己的な反応ではないでしょうか。
様々な利己心を持つ私達は真に「神」の状態、基準に達しましたか? 時間に対する執着の中で、「いつ法が世を正す時が来るのだろう」と期待し、結果は失望の連続ではないですか? 中国共産党の第十六回党大会、オリンピック、第十八回党大会、マヤの予言などなど・・・。簡単に言えば「時間に対する執着」ですが、その裏にどれだけの様々な人心が隠されているのでしょうか? これを機に、私達は真に内に向けて探し、自分の基点は何処にあるのかを見るべきだと思います。
法を正す進展は師父が決定されることです。どれくらい継続し、いつ終わるか、神さえ知りません。迷いの中で修煉する大法弟子はなおのこと知ることはできません。私達はいつ終わるかを推測し、期待する必要はありません。どちらの日も師父は、私達が衆生を救い、私達を救うために、巨大な犠牲を払われているのです。
もちろん、師父は『転法輪』の中でもおっしゃいました。「この具体的問題については、わたしはとやかく言いたくありません。わたしは煉功者に法を説いているのです。常人にどう暮らせばよいのかをいい加減に教えているわけではありません。具体的な問題についてどうすればよいかは、大法に照らして判断し、良いと思うようにすればよいのです。常人はやりたいようにやっていますが、それは常人のことです。誰もが真に修煉するというのは不可能です。しかし煉功者に対しては、高い基準で律するべきなので、これは煉功者に出された条件なのです」。個人の理解では、煉功者は常人と違い、例え法を得た人でも、どんな基準で自分を律するかは人それぞれの選択(個人の観念による選択)であり、人には善を勧めることしかできず、強要することはできないことだと思います。
それでは真に精進している大法弟子として、この貴重な一日、わずかな時間も大切にして、強い主意識、正念をもって物事を見るべきです。私達が当初この世に降りた目的、自分が代表する宇宙体系の衆生を考えてみると、私達が良く修めることは彼らの唯一の希望であり、師父の要求に従って三つのことをしっかり実行すべきだと思います。実際の苦痛や重圧は、師父がすでに私達の代わりに引き受け、多くの場合私達はそれを知らず、師父は教えてもくださいません。将来、私達はそれを知ることはできないでしょう。人間世界の十数年がそんなに苦痛だと思いますか? それなら、私達は今まで生生世世に輪廻転生を経て、苦労を舐めつくしてきたのは何のためでしたか?
個人の理解として、真に精進している大法弟子なら、どんな状況に置かれても穏やかな心で、時間の緊迫を意識しながらも、さらに着実に修煉し、着実に師父に従って人を救い、どんな焦りや喜び、興奮も表わすことはないと思います。師父はおっしゃいました。「何も求めず自ずと得るのです! 大法弟子が今日行っている全ては歴史が皆さんに賦与した責任であり、正々堂々と行うべきことを行い、全てはその中にあります。(拍手) 圓満成就をしたいと思っている限り、圓満成就することができません」(『二〇〇三年旧正月での説法』)
これは個人的に認識したことですが、同修の皆さんと交流し切磋琢磨したいと思います。この問題に対する皆さんのお考えをお聞かせ下さい。私達大法弟子は共に、最後の一歩一歩を平穏に順調に歩み、使命を全うしましょう。