【明慧日本2012年12月29日】河南省杞(き)県に在住の法輪功修煉者・趙則敏さんは法輪功を学んでいるという理由で、中共(中国共産党)当局に何度も連行や拘禁、労働教処養分を強いられ、心身ともに苦痛を与えられた。2009年12月、労働教養所の迫害により完全に自立生活ができなくなった趙さんは帰宅させられたが、家でも当局から嫌がらせや脅迫を受け続け、先月24日、90代の母と妻、子供2人を残して無念にもこの世を去った。享年48歳。
趙さんはかつて病弱で、脳炎の後遺症で頭がいつも小刻みに揺れ、痩せていて、よくめまいを感じていた。法輪功を学んで数カ月後には病気の症状が消えて元気になり、体重も50数キロから70キロ代まで増えた。
1999年7.20、中共当局は法輪功への弾圧を開始した。全国のメディアを利用して法輪功への誹謗中傷を行った。同年11月、 趙さんは法輪功を学ぶ自由を与えてほしいと訴えるため、北京に行ったが、警官に連行されて地元に送還され、留置場に拘禁された。留置場で趙さんはしゃがむ姿勢を強要され、 手かせ足かせを付けられ、ビンタを食わせられた。また寒い日には、趙さんは服を脱がされ、窓を開けた公安局の広い会議室に連れて行かれ、3時間以上も立たされたことがあった。
2000年7月、 趙さんは陳情のため、再び北京に行った。しかし、北京で趙さんは天安門公安支局の警官に連行され、天津にある留置場に拘禁された。留置場で趙さんは断食で不当拘禁に抗議し、無条件の釈放を求めたため、警官に強制的に灌食され、激しく殴打された。趙さんは肺に傷害を受け、高熱を出し、血や膿みを吐いていた。弱々しくなった趙さんはその後、地元の公安局に天津の留置場から地元の留置場に移送された。
地元の留置場で趙さんは血や膿みを吐き、高熱が1カ月間続き、髪の毛も抜けてしまい痩せこけた。しかし、こような状態になっても趙さんは解放されず、2年の労働教養を強要され、開封労働教養所に移送された。
教養所で趙さんは毎日、奴隷のような労働を16時間以上強いられた。ある日、趙さんは重労働に抵抗したため、警官の指示を受けた受刑者にシャベルで打たれ、肋骨2本が折れ、肺部から出血し、高熱が1カ月間続いた。趙さんは教養所から帰宅したとき、骨と皮ばかりに痩せこけ、体中は疥癬(かいせん)だらけだった。
帰宅した趙さんは、勤務していた会社から不当に解雇された。家族の生計を維持するため、趙さんと妻は小さな店を始めた。しかし、地元の警官はいつも趙さんの家まで行って、嫌がらせなどをした。
2008年5月22日午前、趙さんは買い物に行く途中、警官に連行された。その後、趙さんは2年の労働教養処分を下され、許昌労働教養所に送られた。教養所でも趙さんは法輪功を学び続け、転向を拒否したため、警官に法輪功への誹謗中傷の文章を読むよう強要され、重労働を科され、殴打された。警官の殴打で趙さんは両目が腫れ、目が充血し、右目の視力が落ちた。
その後、趙さんは教養所の迫害を暴露したため、刑務所側にいっそう迫害を強化され、迫害により両足で歩けなくなった。しかし、警官は趙さんは仮病だと言い、受刑者に指示して趙さんを連れ回した。その途中で受刑者らは突然、趙さんから手を離した。趙さんは動けず、そのまま倒れてしまった。しかしその後、警官は両足で歩けない趙さんに手作業の労働を強要した。
趙さんの状況を知った家族は、労働教養所に行き、趙さんの釈放を求めたが、教養所側が趙さんを釈放せず、趙さんと家族の面会も許さなかった。その後、趙さんは完全に自立できなくなり、2009年12月28日に帰宅させられた。
しかし、趙さんは帰宅しても、地元の警官から嫌がらせや脅迫が絶えなかった。そのため、心身ともに障害を負った趙さんは、健康状態が悪化する一方で先月24日に死亡したという。