―12年の修煉過程の一部
文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年1月12日】続いて、二つの事件が現れました。9月8日の夜、私は同修に師父の新経文を届けに行きました。同修は私に会うと「あなたはなぜ労働教養された期間の2年を3年に書き替え、明慧ネットに送ったのですか? 無責任です」と私を責めました。私は平常心で説明し、「私にはまだ取り除く人心が多くあり、必ず内に向けて探しますが、あなたの情況はよく知っており、3年とは書かなかったと思います」と言いました。帰宅途中、自分がよく対応出来たことで嬉しく、内に向けて探しませんでした。その日の夜、正念を発する直前、夫は突然部屋に入り、勢いよく「あなたは嘘つきだ」と怒りました。
当時、これは心性の試練だと思いました。しかし、この二つの事から、自分がどこで間違ったのかを探しましたが、見つけることが出来ませんでした。問題はいったいどこにあるのでしょうか? 「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)と師父は説かれていますので、学法が第一だと考えました。
翌日の午前、私は静かに次の経文を拝読しました。「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません」(『大法弟子とは何か』)と、ありました。私は突然自分が真に修めていないと感じました。この二つの事に対し、私は自分を人の上に置いていました。最初の一念は「本当に私は何を間違えたのでしょうか?」ではなく、逆に自分の修めが上手だと思いました。私は内に向けて探し始め、やっと見つけました。修煉の前、私は常人の会話の中に自分の感情を入れる習慣がありました。修煉してから、この悪いものを抑制することに注意しましたが、結局これを隠してしまいました。12年の中で、私はこれを発見することが出来ませんでした。私は早速正念を発し、これらの心を取り除き、また明慧編集部に間違えたことを伝えました。
その後、私は学法を続けて、師父が『大法弟子とは何か』の中で説かれた「大法弟子は宇宙で衆生を救い済度し、この最後の複雑な社会環境で衆生を救い済度しようとしており、皆さんに考えてほしいのですが、どれほど難しいのでしょうか? 皆さんがその難しさを目にしたら、本当に目にしたら、それはあまりに恐ろしいことだと分かるのです。しかし、大法に従い、師父が皆さんに教えた通りに行なえば、皆さんに歩む道があり、誰も妨害することができません。しかし、この道は非 常に狭く、非常に正しく行なわなければならないほど狭いのであって、そうしてはじめて、人を救うことができます。非常に正しく歩んではじめて、問題が起こらなくなるのです」の内涵を理解出来ました。
この交流文を書くとき、ずっと任務を完成する「心」があり、この心があると文章が不純になるため、私は改めました。このとき、私は「修煉体験」を書いて投稿する過程は修煉の向上の一つの過程であると実感しました。今回の投稿には色々な妨害が現れましたが、私はどんなことがあっても、すべての困難を克服し、原稿を完成しようと思いました。
「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)の経文に対して、さらに深い理解が出来ました。私は法の中に溶け込むことで、隠れた執着心が暴露され、執着から招いた邪悪も破られ、大法は私の正念を固めさせました。正念は神念であり、神念は当然神威を顕すのです。
13、贈り物を受け取らず、真相を伝えた
この1カ月、新居に移り、秋分節に入ったので、贈り物を送ってくれる人が多かったのです。これらの人は実際救い済度を求めに来た縁のある人達でした。私は来客にインターホンで感謝を表し、誠心誠意「気持ちをいただきますが、贈り物はいただきません」と言い、来客にマンションの入口のところで待ってもらい、私は真相資料と真相DVDを持って降り、来客に真相を話して、三退を勧め資料を渡しました。皆が三退し、感激しました。私は贈り物を彼らの車に戻し、同時に「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」をしっかり覚えるように薦めました。彼らはすぐ真面目に覚えました。ときには、来客の車の中に掛けてある毛沢東の像が見えた時、毛沢東は殺人の魔王なので、それを掛けたらあなたは平安を保津ことが出来ず、逆に不幸をもたらすことを説明しました。彼らはすぐその像を下げ、私に渡したので、私はすぐその像を処分しました。
私にはまだしっかりしていない部分があり、強烈な求める心を持って訪れた人に対し、面子のため酒を拒否できず、心がいらいらしました。分析してみると、面子や嫌う心などの原因は「情」でした。相手に何かがあると見えたとき、相手は私の一面の鏡です。他人の人心が見えたとき、必ず自分にも同じような人心があると、無条件に逆に自分を見て、自分の隠された執着を見つけて取り除き、師父について家に戻ります。
今後、修煉の道がいかに狭く、難しくとも、私は必ず大法の修煉を続け、師父について、三つのことをしっかり行います。
私を地獄から救いだし、きれいにしてくださった師父に感謝申し上げます。恩師の慈悲なる済度に感謝申し上げます。
同修の協力と助けに感謝いたします。
(完)
(第8回明慧ネット中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)