文/山東省の大法弟子 蓮韻
【明慧日本2013年1月22日】
三、正す
ある日、偶然に同修Bさんと出会って、Bさんはストレートに私の至っていないところ、大法に符合していないところを指摘してくれました。
1)常人の中の事は常人の中の事で、大法の事は大法の事で、両者を混ぜてはいけません。混ぜたら互いに邪魔してトラブルが起きます。あなたは夫とのトラブルを機にして親戚らに真相を伝えましたが、常人は人情とメンツに配慮して「三退」したに過ぎず、本心から「法輪大法が良い」と思っていないかもしれません。
2)そうすると、あなたの夫と姑たちはまた夫の誤りを大法のせいにして、あなたが法輪功を修煉するために夫はこうなったと言いふらします。大法に泥を塗るだけでなく、彼らも大法に罪を犯したことになります。
3)この件について、あなたの夫と姑たちはずっとあなたに謝っていません。つまり、彼らはまったく過ちを認めておらず、悔い改めることは言うまでもありません。このことを正せていないのは、あなたが除去すべきものをまだ除去していないためで、それはあなたを妨げています。今のあなたはどうしようもなくて、受身的な立場になっています。
Bさんの言ったとおりです。法理に照らし合わせてBさんの意見が正しいと分かって、私は敬服しています。引き続き、Bさんは下記のような提案をしてくれました。
1)自分はまだどんな人心を放下していないか、内に向けて自分の心性をしっかりチェックする。
2)夫と息子に対する情を放下したのか(愛も恨みもすべて情である)。
3)もう一度強制労働教養所に入れられることを恐れているのではないか。
4)常人の中の事は、常人の方法で対応すれば良い。
同修Bさんはまた、家庭関係に関して、自分はいろいろ経験して法理を明晰に分かっており、ここ数日はちょうど休みだから、随時彼に事態の変化を教えて相談しても良いですよ、と暖かく言ってくれました。私が泥沼に陥ってなかなか抜けられないのを見て、師父はBさんが私を助けるように按排されたと思います。
「心中穏やかではないとき、それは執着心によって引き起こされたのではないでしょうか」(『精進要旨』「さらに執着を取り除く」)
「佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で物乞いをしていたのです。わたしは今日、門を大きく開いて大法を伝え、皆さんを済度しています。わたしは無数の苦難を嘗めても苦しく感じたことなどないのに、皆さんはまだ何が放下できないのでしょうか? あなたは心の中で放下できないものを天国へ持っていけるのでしょうか」(『精進要旨』「真修」)
「更に高い次元になると、全ての厄介なことは天に上るための道を開いているだけであると言っています」(『二〇〇三年旧正月での説法』)
億万年も待って、千万年も輪廻して、今日、私は幸運にも師父に弟子として選ばれて、また何を放下できないというのでしょうか? 私の出遭ったすべての思い通りにならないことは、みな私の放下したくない執着がもたらしたものではありませんか? みな師父が私を高めるために按排した難ではありませんか?
夫の反応は私の鏡となります。夫の振る舞いは私の内心に隠れた執着を暴露させました。夫の不倫が発覚してから私の第一念は「彼が間違った、私は間違っていない」で、これはまた内に向けて探すという修煉の原則に背いているのではありませんか。心のバランスを失った私は執着心に駆られて、トラブルが発生した当初から夫を対立の立場に押してしまって、恐れる心、疑心、恨み、嫉妬心など種々の人心が潮のように湧き出て、自分はまだ己を知っていません。幸い私は自分が大法弟子であるという身分を忘れておらず、やむを得ず我慢していますが、その我慢はとても苦くて疲れています。
しかし夫の立場に立って考えると、10数年来、私は何度も不法に強制労働教養所に入れられて、家財も差し押さえられて、夫は一人で社会、家庭、勤め先など各方面からの巨大なプレッシャーに耐えてきました。今まで私は彼の立場から彼のために考えたことがあったでしょうか? そのプレッシャーは私のために発生したのではありませんか? 私は直ちに自分を正せておらず、また「いつでも正しい」という顔をして、夫に尊敬されるはずがありますか?
今回の件をきっかけにし、私は執着心を除去して自分を高めるべきですが、しかし私は「真相を伝える」という理由で常人(彼の親戚や隣人)に文句を訴えて、自分の不足と人心を隠していました。常人は神の事を解決できますか? このようにして常人に修煉の素晴らしさを見せることができますか? 常人に良くない一面しか見せることができません。もし私がこの件のせいで労働教養所に入れられたり、路頭に迷ったり離婚したりすると、彼らは私に罪を犯すことになります。彼らにそういう罪を犯させないために、私は自分をしっかり修めないといけません。
法理からも私は知っているように、家族が大法弟子に対して罪を犯す行為を制止させることも、家族に対する救済になり、一種の慈悲でもあります。また邪悪に対して、意気地のない態度を取ってはならないという理も分かりました。どうして私がずっと弱い態度を取ってきたかというと、実は恐れる心なのです。名、利、情などを失うことを恐れたからです。
それから、夫がまた「あなた、また労動教養所に行きたいのですか」と私を脅した時、私は正々堂々とこう話しました。「あなた、くれぐれもそのようにしないでください、あなたにとって決して良いことが一つもありません。自分の目的を達成するために手段を選ばないことを、あなたはしないでくださいね。私の職場の共産党書記は大法弟子への迫害に参与して、罰が当たって死んだことを、あなたは彼の学友ですから知っていますね。その後の書記も大法弟子への迫害に参与して罰が当たって死んだことも知っていますね。彼は私たちの近所の人なので。労動教養所というところに私は入ったことがありますが、あなたはまだ見たこともありませんね。あなたは売春もし収賄もして、もし私が告発すると、今回きっとあなたを労動教養所に入れることができます。善には善の報いがあって悪には悪の報いがあって、あなたがもしこれ以上忠告を聞かなければ、きっと罰が当たりますよ。一方、誰もが過ちを犯しますので、あなたの過ちは大したことでもありません。もし徹底的に過ちを改めてあの女と関係を断ち切れば、私はあなたの過ちを全部忘れることができます」
息子は我々に離婚をしてほしくなくて、「誰かが私の人生を影響すれば、私もその人をひどい目に遭わせます」と夫に警告しました。夫は怖くなって何の言葉も出せなくなって、それから彼の言行はだいぶおとなしくなりました。
(続く)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)