文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年3月19日】大法が伝えられて20数年の時間の推移につれて一部の修煉者は法からだんだん遠ざかっていく現象が現れています。昔からの言い伝えの通り、「修煉の1年目は仏が目の前におられ、修煉の2年目は仏は仏堂におられ、修煉の3年目になると、仏は天におられます」。法から遠ざかっていく多くの修煉者は迫害により離れていくわけでなく、修煉を持続できないのです。学法を堅持できず、煉功を堅持できず、内に向けて探すことを堅持できないが故に修煉から疎遠になってしまうのです。
迫害を受けていた際、良く耐えてきた同修達にも怠ける状態が現れました。例えば、刑務所の中で猛打された後でも煉功を続けていた同修が、家に戻ってから、本を読めば眠くなり、煉功も3日坊主で、真相伝えの際は遠くへ行きたくないなどの現象が現れました。環境が緩くなる一方で、修煉の気持も緩んでしまいました。あれだけ凄まじい勢いで勇猛邁進し、天地を驚かすほどの修煉の意志が、今になって怠け、元気がなく、怯えて前進しなくなりました。不思議なことは、修煉の原則は変わっておらず、師父の慈悲も以前と同じなのに、なぜ一部の同修は前進するどころか後退してしまったのでしょうか? 長く考えて、私達はある認識に至りました。真摯な志と心構えがなければ、熱意のこもった心やしっかりした足取りも出来ません。
私達は修煉において怠ける心が生じてきた原因の幾つかを分析し、精進の原動力の由来について考えてみたいと思います。私達の浅見がレンガを投げ、玉を引き出す効果を果たすことができること、そして同修の皆さんがだらける原因を見つけ、それを克服し、更に精進して行かれることを望みます。
まずは、仏法に対する感性的認識を理性的認識に転換していく必要があります。大法を得た当初、誰もが人的興奮や喜び、衝動を感じやすく、仏法についてあまり知識がないため、本にどのような神話が書かれているのか、どんな功能を得られるのか、心を修めればどんな利点があるのかについての興味を持ちやすいのです。しかし、新鮮味が過ぎ去り、衝動が消え、情熱もなくなった後には、平淡や雑多、寂しさが残ります。心を修める年月を重ね、トラブルの中で奮闘する日々を重ねていくうちに、天国が見えない中で、見えているのは法の厳しい要求基準です。功能の神通を感じられない中で至る所に心性の試練があります。仏法に対する感性的で表面的な好奇心を理性的で、心からの敬慕の念に昇華していかなければ、単に人間の衝動と情熱だけでは修煉を長く持続できません。心底から生命の存在意義は返本帰真であり、法を正す師に手伝う事にあることを認識できて、初めて迷いなく、仏法に対する堅い信念を元に、最後まで堅実に学び、修めることが出来ます。
二つ目は、高い志を持ち、衆生を常に念頭に置くことです。誰もが知っていることですが、今の世人は私利の為に手段を選ばず、奪い合いや殺し合いなど何でもやりますが、それが私であり、自我であり、人心の私情です。しかし仏は衆生の為なら平然と自分の全てを捧げることが出来ます。それは優しさであり、無我であり、仏性の慈悲です。仏を学ぶ自分の態度を端正にして初めて終始一貫して学んで行くことができます。法を学ぶのは誰の為でしょうか? 自身の為に学ぶのなら必ず悲鳴を上げ、天を恨み、修めれば修めるほど難しく感じ、しまいには音を上げてしまいます。衆生の為なら必ず勇猛邁進し、恥を忍んで重責を担い、修めれば修める程勤勉になり、徐々に昇華して行きます。三蔵法師が八十一難を経験したのは衆生のために真のお経を得るためでした。常人でも、非凡な志 を持って初めて非凡な事業を成し遂げることができます。私達の学法の動機や目的は純粋でなければならず、少しも自分のためを思わないほど純粋であってこそ、私達はようやく生死を恐れず、忍耐強く頑張りぬき、退却しないのです。修煉の志が弱く、願望が小さければ小さいほど情熱も少なく、修煉の足取りが遅くなり、心が浮き足立って、神仏からだんだん離れていきます。
三つ目は、トラブルに遭った際に正念を持って問題を考え、法に対して揺るぎない信念を持つことです。修煉者が法を深く勉強できず、法が宇宙の真理で、修煉の真の経であることをはっきりと認識出来ない時、愚かになり、揺れ動き、萎縮します。しかし、法に関して相当な認識が出来た時、私達の心には正念や正しい見識が揺るぎなく、自然に生まれてきます。全ての怠慢は正念の足りなさに由来し、全ての動揺は法を明白に分かっていないからです。『精進要旨』の「誰の為に修めるのか」の中で、師父は次のように説かれました。「いかなる圧力であっても、佛法に対して根本から確固としているかどうかを試しているのではないのですか? 根本から法に対して確固としていないのであれば、何を言おうと無意味なことです」。私達の認識としては、確固とした心がなければ、確固とした行動も伴いません。
四つ目は、安逸心に警戒し、厳粛に修煉に臨むことです。人間社会の至る所に妨害があり、出来事の全ては試練です。私達が少しでも気を緩めればすぐに安逸に隙を乗じられ、判断力が鈍くなり、情緒が不安定になり、定力を失います。怠慢と安逸は人間の常ですが、修煉者にとっては取り除き難い悪習であります。悪習を改めなければ円満成就は難しいでしょう。修煉は厳粛で、非常に厳粛なことです。修煉は川の流れに逆らって舟をこぐように、前進しなければ後退してしまいます。安逸は路に横たわる虎のように、私達の前進の足取りを塞ぎ、一歩も前進できないようにします。この虎に勝ち抜いてこそ、勇猛邁進できるようになります。
五つ目は、修煉当初の状態を保ち、前進し続けることです。常人の精進は一時の事に過ぎず、その後はだらけ、更にだらけて、再び精進しなくなります。修煉において持続する気持ちがなければ、常人の状態に囚われてしまいます。修煉は試練に直面しなければならず、その試練は時に有形で、時には無形のものです。私達の認識としては、堅持することが試練であり、正念の有無が試練され、信念の確固さが試練され、最後まで堅持できる人のみに円満成就のチャンスが与えられます。
修煉は一時の衝動ではなく、決意表明やスローガンを唱えることでもありません。自分の心を正し、意志を強め、絶え間ない学法や実修を重ねて、初めて法の内包が見え、法の奥深さを体得できて、仏陀の神通力を行使できます。人間の命には限りがありますが、仏法は無限です。私達が学んだことや犠牲の全ては仏法という雄大な海の一滴の水に過ぎません。これから修める日々は多くありません。今まで私達がどれだけ修煉してきたのか、幾ら耐えてきたのかにかかわらず、長い歴史の中で千年でも一瞬に過ぎません。堅持は一種の試練であり、それは一種の長期的試練で、長く堅持することが出来なければ、早かれ遅かれ淘汰されます。どうか同修の皆さんが絶え間なく精進し、着実に修煉していかれることを切に願っています。