大法弟子 文/中国の
【2013年7月21日】偉大なる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは! 大法弟子は修煉の中でそれぞれ自分の役割を演じています。その中で、どのように他の同修と協力して隔たりを無くし、皆と一体になるかについて、自分の体験を書き出して師父にご報告し、同修の皆さんと交流したいと思います。
一、 十数年も平穏に運営してきた資料拠点
私と同修Aさんは一緒に一つの資料拠点を担当し、風雨の中で着実に十数年も平穏に維持してきました。真相を伝える中で大きな役割を果たしたほか、2人の修煉に多くの貴重な経験と教訓を蓄えました。この資料拠点は今なお現地の修煉環境を安定させる大きな役割を果たしています。
Aさんはふだん現地の全体の協調に多くの力を注いでいるため、技術を深く研究する余裕がなく、通常、技術問題はすべて私が習って把握しています。安全を考慮して、ふだん私は他の資料拠点に技術の支援をする以外は、あまり同修たちと接触せず、控えめにしています。
3年前に、現地の資料拠点が増える中で深刻な迫害に遭い、複数の小さい資料拠点が次々と破壊されました。今でも小さい資料拠点の数は少ないのです。そのため、私とAさんの資料拠点の存続は大きな意味があります。私とAさんが正念の下でこの道を一筋に歩む中で、我々を守り助けるために師父がどれほど心血を注がれたか計り知れません。
まず、2人とも働いていない状況下で、師父は私達の生活の問題を解決してくださいました、私は一族の財産から一部のお金を得ました。それほどの金額ではありませんが、長期にわたり2人の質朴な生活を維持できます。そのためここ数年、私達は適当な仕事が見つからなくても、資料拠点の運営に全身全霊を投入することができました。私達は自分のお金と資料拠点の資金を厳粛に分けて、使用する時も決して混淆することなく、長年安定的に運営して、現地の修煉環境を安定させ充実させて、同時に邪悪を消滅しています。
二、妨害を排除して、正念を取り戻す
Aさんと一緒に資料点を維持する中、私は多くの心性の試練に耐えてきました。特に希望が見えず、世俗の誘惑に直面する時、資料拠点をしっかり維持していけるか、意志を固めて修煉を続けられるか、私達にとっては厳しい試練でした。師父の苦心の按排と周到なご加護の下で、私達は一回一回苦境から立ち直り、曙光を見出し、正法の中で自分の役目と逃れられない使命がますます分かってきました。
長期にわたる清貧の生活の中で、心が時々虚栄心と貪欲にかき乱されるとき、心性は練磨されていきます。家族は私の経済状況を改善させようと、何回も彼らの近くに良い就職先を斡旋しようとしましたが、自分の責任を考えて現地の修煉環境に悪影響をもたらしたくないため、毎回私は家族の好意を辞退しました。幸いに家族に修煉者もいて、私を理解して応援し助けてくれました。
ここ数年、明慧の文章に資料拠点の同修が良い仕事に就く事例が多く、読むとなぜ私とAさんは良い就職先が見つからないのかと愚痴り、仕事探しをちっとも重視していないとAさんは文句を言います。時に、この愚痴と文句の気持ちがとても強く、修煉者が持つべき「善」を忘れてしまいました。
肝心な時、特に当地区が深刻な迫害に遭った時、Aさんは個人の安否を顧みず一心に全体の事を気にかけて、毎日この同修を心配したり、あの同修のことを気にかけたりして、何回も彼らと交流を行い、また情報を探し集めて迫害を暴露する文章を書かなければならず、毎日疲れきって帰って来ました。いくら忙しくても、Aさんは学法と煉功を怠ることがなく、これは彼が大法の仕事をしっかり行うことができる基礎です。私達の資料拠点は危険に晒される時、あるいは警官が身分証をチェックしに来た時、Aさんは先頭に立って対応し、私を守りました。彼は技術が分かる同修と資料拠点の同修の修煉状態をとても気にかけて、彼らの安全を守るために力を尽くしました。極めて誠実で善良で、責任感が強い彼の姿勢にみんな感動しました。地元の同修であれ地方の同修であれ、彼は分けへだてなく同じように気にかけました。私の心性が良くない時、彼に対して妨害をもたらしたと思います。その時、学法と交流を通じて、歩んできた経歴と経験、教訓を思い出して、私は毎回執着を見つけて正念を取り戻すことができました。私達2人も我々の資料拠点も、ますます成熟して師に手伝う道を健全に前に進んでいます。
師父は『二〇一二年米国首都国際法会での説法』で「私は見本がなく、参照がなく、参考にするしかないと言っています。ほかの人が正念で行なったことを参考にするしかありません。相手のやり方で行い、相手が行なったことをそのまま踏襲するのであれば、あなたは間違いました。すべての人が自分の道を歩んでおり、すべての人が将来自分が大法の中で認識する法を正しく悟っています」と説かれました。
旧勢力はすべての大法弟子の体に彼らの按配を押しつけました。着実に修め、師父の按排に従わなければ、ついに旧勢力の邪悪な按配に陥ってしまい、全体の修煉環境を邪魔する役をさせられるのです。
Aさんは現地公安局のブラックリストに入れられています。(もちろん私達はブラックリストなど認めません)。そのため、現地で仕事を探すのは危険です。もし彼が地方に行ったら、私達の資料拠点は解散せざるを得ません。そのうえ、Aさんがやっている大法の仕事は多くの時間がかかるので、それも就職先を探す時の難題です。彼が仕事をすべき時には、師父がきっと助けてくださり、その時になれば彼は自然に就職先が見つかるに違いありません。では、私はなぜ彼の就職問題に固執するのでしょうか。正念が足りない時、私はそれらすべてを忘れて、Aさんの困難を理解して思いやることが出来ないばかりか、さらにAさんに文句を抱えて、資料拠点の仕事にもある程度支障をもたらしました。
私は明慧ネットの「十万貫を携えて、鶴に乗って揚州へ下る」の文章を読んだことがあります。4人の友人がそれぞれの夢を語っています。1人は金十万貫を儲けたいと言い、2人目は得道して仙人になり、鶴に乗って空を飛びたいと言い、3人目は生活が豊かで景色が美しい揚州に行って見聞を広めたいと言い、4人目は「あなたたち3人のほしいものを、私は全部もらいたい」と言いました。つまり、「十万貫のお金を腰に巻いて、鶴に乗って揚州へ下る」ということです。この文章を通じて私は自分の執着を見抜くことができました、ほかはすべて言い訳で、金に対する貪欲こそ私の心のしこりです。私達に今の生活を続けさせるため、師父は経済問題を解決してくださり、すでに私達に最大の便宜を提供してくださったのに、私はどうしても現実にそぐわない白昼夢にふけるのです。自分のすべてを完全に師父と大法に委ねてこそ、はじめて障碍を取り除くことができ、師父が按排してくださった道を最後まで歩んでいけるのだと、多く学法して私はついに分かりました。
三、俗世間の中で、忠と義をやりとげる
師父は『北米での巡回説法』の中に初めて『三国志演義』の中の「義」、と南宋時代の岳飛の「忠」に触れて、神伝文化の中の「忠」、「義」で大法弟子を諭されました。Aさんと交流して、常人社会で修煉する大法弟子はいっそう「忠」と「義」をやり遂げるべきだと彼が言った時、それは常人レベルのものだと思って私はとても抵抗しました。Aさんは、師父は絶対に修煉と関係ない事を話されないと言いましたが、私は共産党文化の変異した思想に毒害されて、師父はただ弟子達に伝統文化を教えておられると浅はかに考えて、師父の言葉の内包を理解できず、それを自身の修煉と結び付けることもできませんでした。当時、Aさんの理解が間違っていると主張した人は、私だけでなく、実は我々は師父が伝え出された法理を理解できなかっただけなのです。
それからだんだんと、同修を寛容し思いやることができないのは、党文化の変異した思想の影響に関係があると気付きました。特に師父が『大法弟子とは何か』の中で再度「義」と「忠」に言及されたのを見て、師父は伝統的で正しい考え方とはどうあるべきか、何が正しいか、何が大法に認められているかを大法弟子に教えておられる、と私はやっと悟りました。
師父が2回の説法で「忠」と「義」に言及されたのに、私達はどうして軽視できるでしょうか? 神は歴史の中で一つの時代(三国時代)の時間をかけて「義」を演繹し、また一つの時代(南宋時代)を按排して人々に「忠」を演繹しました。人類の歴史上、人は「忠」と「義」をやり遂げるため命を捨てて品行方正な君子になることもでき、「忠」と「義」はこれほど大切な価値があり、今日の法を正す時期の大法弟子にとって更なる意味があると思います。
邪悪な迫害の中で、どんな環境と情況の下でも、大法を信じきることを私たちは要求されています。もし私達が「忠」をやり遂げられるならば、たとえ生死に直面しても、師父と大法を信じる忠誠をしっかり守り、師父と大法を裏切りません。もし私達が「義」をやり遂げられるならば、迫害の中で自分を守るために同修を裏切ることなく、ふだん意見が食い違う時、同修と隔たりや対立も起こさないでしょう。
常人が「忠」と「義」をしっかりと守れば品行方正な君子になり、歴史の中で美しい名声を残します。大法弟子が「忠」と「義」をしっかりと守ることができれば、真・善・忍の法理の中で絶えず昇華して、最後に偉大な神になります。
師父は『二十年説法』で「特に形成された観念、形成された思考様式によって、なかなか無意識のうちに表れた人心に気づくことができません。気づくことができなければ、どのように放下するのでしょうか? 特に中国という環境で、邪党は中国の伝統文化を打ち壊し、邪党のもの、いわゆる党文化を作りました。党文化で形成された思考様式をもって宇宙の真理を認識するのは困難なことであり、場合によっては、一部の良くない考えと行為は世間の普遍的価値観と抵触していると認識することさえできません。多くの良くない考えに気づくことができないなら、どうしたらよいのでしょうか? 大法に従って行動するしかありません」と説かれました。
もし修煉者が師父と大法に対して「忠」さえやり遂げられなければ、大法弟子といえるでしょうか? もし同修と一緒にいる時に「義」さえやり遂げられなければ、師父の要求にまでどれほど遠いでしょうか? どのように共に使命を果たすのでしょうか?
私とAさんが心の隔たりを取り除いた時、彼は夢の中で2本の藤が互いに絡まり合いながら、大きい木(現地の方言では、「木」の発音は「父」と同じ)に絡み付き、勢いよく成長しているという励ましの夢を見ました。大法弟子が一緒に何かをする時に、力を合わせることができれば、師父は私達を上へ上らせ、私たちはきっと共に飛躍的に向上できるでしょう。
(続く)