文/中国長春市の大法弟子 慈容
【明慧日本2013年9月6日】1992年から今年までの21年間は、私たち家族が法輪大法の法光にあまねく照らされた二十一年でした。私は家族が大法修煉後に経験した神秘的な事実を記録として残し、もっと多くの方々とこの喜びと感謝の気持ちを分かち合いたいと思いました。
講演会で、師父が母の身体を浄化してくださった
1992年、師父が法を伝え始めた頃、講習会を開く前に、まず講演会を開催されていました。母は当時46歳で、腰の椎間板ヘルニアを患っており、寝たきり状態で入院治療をしていました。昼夜問わず、足がいつも痙攣して、痛みもひどく、うつぶせに寝ることしかできませんでした。そのため、いつも体を支える母の両肘には、ぶ厚いタコが出来ていました。漢方医・西洋医・鍼灸・マッサージと、すべて試しましたが病状は依然として好転する気配がなく、いつも鎮痛剤に頼る毎日でした。残された唯一の道は手術でした。しかし、手術をすれば半身不随になる恐れがあると言われ、病気に苦しんでいる母はやりきれない気持ちでした。
私は仕方なく休暇を取って母の看病に当たっていました。入院二週間後、隣近所の人が法輪功の講演会があると教えてくれた上、またその講演の先生は北京で多くの難病の人を完治した、最も素晴らしい気功師だとも教えてくれました。
1992年8月9日日曜日、私達は、ものは試しの気持ちで1台の担架を借りてきました。弟は隣の病床の方のご主人と一緒に、母を台車に乗せ、同じ病室の三人の友人とともに、朝早く講演会の会場に向かいました。朝のラッシュアワーを避けるため、早朝6時過ぎには、もう「長空クラブ」に到着し、開場すると同時に、母をホールに運び込みました。開講する少し前、すべての人が着席をして受講を待っていましたが、母だけは仕方なく、担架にうつぶせしていました。誰もが母にもっといい場所がないかと探してくれました。ちょうどその時、白いジャージ姿の背の高い若者が母の側にやって来ました。「何の病気ですか」と尋ね、母が「腰の椎間板ヘルニアです」と答えると、その若者は母をステージの上に上げてくださいと家族に言いました。
講演が始まりました。意外にも、この若い方が師父でした。師父は母に「あなたは協力してくれますか」と親切におっしゃいました。母は二つ返事で「ハイ!」と答えました。師父は手で母の背中を何回か叩いて、「体を仰向けにして、起きてください」とおっしゃると、母は本当に起きて座りました。次に、師父が母に前に腰を曲げるようと指示したら、母は本当に腰を曲げました。その後、師父は母にステージを二周走らせました。母はなんと本当に走り出して、しかも興奮して何周も走りました。これは夢にも思わなかった光景でした。会場では、嵐のような拍手が沸き起こり、多くの人は涙を拭きながら、懸命に拍手をしました。
日曜日の講演会に参加した次の月曜日、母は退院手続きを済ませ、父と一緒に第三期学習会に参加しました。その日から、二人は毎朝、テープレコーダーを提げ、一日も欠かさず公園で煉功を始めました。
姪の不治の病が完治
1994年の夏のことでした。二番目の叔母の長女の末娘は当時16歳で、花のように可憐な子でした。しかし、彼女に突然不運がやって来ました。彼女の左腕の上腕骨に異変が起き、黒っぽくなりました。名医を求め、西洋医学を求め、色々な治療法を求めましたが、回復する可能性がなく、左腕の上腕骨を摘出して、代わりに肋骨を一本移植すると言われ、しかも、その結果は病状の進展次第で、どうなるか分からないとのことでした。それは青春まっただ中の娘にとって本当に青天の霹靂でした。
姉は姪に「お祖母ちゃんは法輪功を煉功して、寝たきりでも治りましたし、お爺ちゃんも病気から回復しました。私達は爺ちゃん,婆ちゃんについて、法輪功を煉功します」と言いました。姪は喜んで賛成しました。その時、姪は入院せず、第三病院の整骨科で左腕を固定してもらい、首に吊るして家に帰りました。19日目に姪が我が家に来て、母から法輪功の功法を習いました。その時、左腕を固定したまま抱輪を30分しました。姪は数日後には固定具を外し、腕の痛みもなくなり、病院で検査をすると黒ずんだ骨も完全に回復したとの結論でした。姉一家は覆われていた黒い雲が散ったように、いつもの楽しい家庭に戻ってきました。
親子が車輪から九死に一生を得た
1994年5月、師父が吉林大学の「鳴放宮」で説法をされました。私の末の叔母は家族三人で法輪功の講習会に参加しました。ある日、小雨が降っていました。講習が終わって、叔父が娘を自転車に乗せて東中華路を走って帰宅する途中でした。ちょうどその時、後ろから一台のジープが猛スピードで突進してきて、「ドーン」という音で、叔父とぶつかり、叔父は仰向けになって倒れました。靴も眼鏡も遠くに飛ばされ、後頭部にガチョウの卵ほどの血の滲んだ腫れ物が出来ました。
この時、叔父の多くの煉功友達が集まってきて、「大丈夫だ、大丈夫だ、師父が守ってくださるから」としきりに言ってくれました。叔父は徐々に意識が戻ってきて、支えられて立ち上がりました。しかし、娘がいないと気づきました。叔母もあちこち娘を探したら、レインコートを着た娘が30メートル以上離れた反対車線に飛ばされているのを発見しました。もし、向こうから車が着たら、子供の命も危なかったです。叔母は娘を支えて座らせましたが、子供は痛くて背筋を伸ばすことが出来ず、衰弱な声で「お母さん、腸が折れたよ」と言いました。叔母は娘を慰めました。「大丈夫だよ、師父が守ってくださるから」。しばらくして、落ち着きを取り戻して、今度は自転車を探し始めました。しかし、どこにもありませんでした。3人は仕方なく、歩いて前へ進みました。人民広場のロータリーに着くと、事故を起したジープはそこで止まっていて、自転車は車体に引っかかったままでした。翌日、叔父は市の病院でCT検査をしましたが、検査結果はすべて正常でした。結局、三人は講習会を一日も休まず受講しました。師父がこの親子を保護してくださったおかげで、一家は肉親を失う悲劇を免れました。
末の叔父の脳血栓が奇跡的に回復した
2002年夏のある日、末の叔父は四階から一階に降りてきて、突然言葉が濁っていることに気付きました。それと同時に、手も持ち上げられなくなり、足も歩きづらくなりました。それは明らかに脳血栓の病状でした。娘婿は彼を背負って病院に行き、「トロキセルチン」を注射してもらいました。叔父も法輪大法を修煉しています。夜になって、叔父は部屋にこもり、ベッドの上で片足を組んで座禅をしました。師父に加持をお願いして、「弟子は精進せず、何事も内に向けに探さないで、人に対して怒り、心は穏やかではありませんでした。弟子は間違いました。くれぐれも私を見放さないでください! 今後私はきっとよく修めます」と叔父はその一念ばかりでした。
このようにおよそ2時間近く座禅しました。すると太ももから足全体に熱いエネルギーが流れ込んできて、しかも二度もありました。こうして、脳血栓の病状は完全に消えてなくなりました。本当に奇跡でした。誰が脳血栓をこんなに早く治すことができるでしょうか?
二番目の叔母は「神韻」を鑑賞して、目の疾患が消えた
二番目の叔母は今年82歳で、居士となって二十年になりました。叔母はとても敬虔で、お昼を過ぎるともう食事を口にしません。しかし、数年前から、気管の調子が悪く、呼吸困難の症状があり、入退院を繰り返しました。一度は緊急措置まで取られ、大変危険な状況でした。叔母は目も悪く、病院では緑内症と診断され、人もはっきりと見えませんでした。74歳の時に左目の手術を受けましたが、良くなるどころか、病状は更に深刻になって、右目も見えなくなって、目の前に来ても、誰だか分からなかったのです。叔母は気丈で、子供達との同居を拒否し、慣れた一人暮らしをしていました。しかし視力が悪いため、とても悩んでいました。
2009年3月、孫はパソコンで祖母にその年の「神韻」を見せました。叔母はディスプレイの前で夢中になって鑑賞しました。二つ目の演目は舞踊「優曇華が咲く」でしたが、叔母は優曇華が咲くと法輪聖王が世に降臨し、衆生を済度することを知っているため、司会者が世界各地でこのような花が咲いていることを紹介し、司会者が「優曇華が咲くと、神仏は帰来します。あなたは見ましたか?」と言うと、叔母はその画面をじっと注視していました。繰り返して3回も見ました。
DVDを見終わって、叔母は孫にパソコンを閉じさせました。その時、学校に行った事もなく、字が読めないはずの叔母は、孫の教材を指差して、この字は「的」で、この字は「不」だと字を読みました。後に、彼女は「あの字はとうもろこしの粒よりも小さいよ」と興奮気味に言いました。
それから、叔母も法輪大法の修煉を始めました。今、彼女は肌がきめ細かく、白くて清らかで、髪の毛も三分の一が黒髪に戻り、ますます元気になりました。
私が証言できたのは、大法弟子の修煉の中のごくわずかなことです。すべての大法弟子の修煉過程は、厚く味わい深い歴史書となります。危難が来る時、「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」としっかり覚えて下さい! そうすれば、無事に災難を回避することが出来るからです。