文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年10月11日】長い間、三つのことを継続して実行していますが、しかしよく夢を見ます。夢の中で、自分は常人の中で常人のことに忙しくしていました。ある同修と共同で一つの衆生を救うプロジェクトを行っていますが、夢の中で、その同修は非常に高い所に立っていながらも恐れず、私に手を差し伸べ、私を上へと引っ張って行こうとしていますが、私はどうしても上がろうとしない様子でした。目が覚めてから考えてみたのですが、私は大法の中で修煉しているものの、心の大半は未だ常人の中に留まっていることに気づきました。
一体どういう心によって自分が常人の中に沈んで向上できないのでしょうか? 幾ら考えても答えが見つかりませんでした。『轉法輪』を開いた瞬間、一行の法が目に入りました。「常人のことをとやかく言っても仕方がありませんが、常人のままでよい人は、一時的に心地良くなればそれで結構でしょう」師父は私に問題を指摘してくださいました。私は心を静め自分の日々の行動を振り返ると、確かに心地良くなりたい行動が多くありました。例えば、夜に法を暗記していて、眠くなれば先に少し寝て、目が覚めてから暗記する。早朝に静功を煉った後、眠くなれば、少し寝てから動功を煉る。15分の発正念後、疲れを感じたらすぐに止め、正午の時間になって、家族に話しかけれられたり、あるいは家事に忙しく、それを全部終えてから発正念に入る。グループ学法に参加する際、同修達はいつも学法を終えてから一緒に煉功しますが、私は早朝に既に煉功を終えたと思って、多くの功を煉りたくなく、グループ学法にあまり積極的に参加しなかった。外に出掛け、対面して三退を勧め衆生を救おうと思っても、時間が不十分だったり、話すチャンスがなかったりした場合、そのまま帰宅してしまう。勤務時間中、暇があればネットで衣服の売買サイトを閲覧し、その時間を利用し学法しなかった…等などです。このような状態でも自分が修煉していると言い、実質、自分の心地よさを求める心に沿って三つのことを実行し、師尊が按排してくださった貴重な時間を浪費してしまいました! 三つのことを実行しているものの、法の基準に沿って自分を要求せず、自分が置かれた環境の中で最大限にベストを尽くしませんでした。一言で言えば、向上しようとする意志があっても、頭の中で形成されていた根深い常人の観念を放任し、修煉において多くのだらけがあっても気づきませんでした。故に、自分が常人の事に忙しく駆け回る夢を見、衆生を救うプロジェクトに参加しても自身の向上が得られませんでした!
師父は随分前に、大法弟子に心を静め、『精進要旨』を10回読むようにと要求されましたが、私は今年初めて10回を読み通し、10回目に初めて「時間との対話」と「道法」の中の説法の一つ一つが私を指していることに気づきました。長い間、私は確かに習慣的に自分の現状と過去を比較し、以前より良くなっていることに喜び、三つのことを実行する際、常人に邪魔されると、私は常人の方法をもって解決を図り、しかも効果があると思って、滅多に神念をもって思想から出て来る常人の念を抑制しようとせず、恩師の法身が按排してくださった心性を向上させる機会を逃してしまいました。そのため、長い間心性が常人の多くの観念に覆い尽くされ、それによって大法修煉の中で精進しにくく、突破し辛かったのです。
常人を見てみると、目、鼻、口、耳、体が心地良く感じることしかせず、美しいものを見たり、耳に心地良い音を聴いたり、美味しい物を食べたり、常人は常にこの「心地よさ」を巡って忙しくしていませんか? 大法を学び、恩師の多くのお教えを聞き、多くの法理を知ってから、大きい方面では名、利、情の誘惑に抵抗できますが、肉体や心の感受の面において、知らず知らずのうちに古い観念に左右され、修煉の道のりにおいてうろうろして前進できず、消沈しているにも関わらず、まだ自分が良いと思ったりします。そして、自分の身における大法の威力の再現も阻まれました。例えば、グループ学法に参加したくても、主人が家に居れば門を出ることを躊躇し、彼に止められることを恐れ、実質、彼も法を得る為に来た衆生であって、彼の本性の一面は絶対に私を止めたりしないはずだと思いませんでした。肝心なのは、私がいかにその躊躇する心を放下し、正々堂々と自分のやるべきことを実行するかにあります。また、綺麗に着飾って神韻のディスクを配れば良い効果が得られると思っていましたが、実質、衆生に神韻ディスクを配ることは神聖な行為であって、純粋で慈悲な心を持つのが大事であって、私たちは手足を動かし、実際に衆生を救っているのは師父であることを思いませんでした。このような常人の観念に影響され、私は綺麗な衣服を買うことに多くの金銭と貴重な時間を費やし、本当に馬鹿げたことでした! そして、私が迫害を受けたことで主人は大法のことを理解できず、主人の前で彼の友達に三退を勧めることに躊躇し、実質、彼の友達が私たちと知り会えたのも、運命的なもので、このような機会に大法弟子と接し、真相を聞き、救われることだとは思いませんでした。肝心なのは、私がいかに神通を運用し、彼の友達に難なく真相を聞かせ、三退させるかにあります。これらの状況下で、私が観念を改め、正念を持って正しい行いをするとき、良い効果が現れました。
もし私が常人や古い観念から突破口を探せば、様々な常人の感受に妥協し、出口が見つからないでしょう。もし大法の要求に従い、常人の中で感じる様々な感受を反対に思い、特に体で感じる様々な感受、一切の心地よさのない感受を試練として考えれば、私の心性は必ず向上し、大法修煉において精進し、邁進できるでしょう。