文/山西省太原の大法弟子
【明慧日本2013年11月19日】尊敬する師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!
明慧編集部が主催する『第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会』の原稿募集を見て、私は大変感激しました。私は小学校しか出ていません。あまり文章を書けないのですが、自分が歩んできた非凡なこの人生の道を書き出し、皆様と分かち合いたいと思いました。師父の慈悲なる済度に感謝し、同修の助けに感謝したいと思います。
私は1995年に修煉を始めた古い弟子です。60代になりました。私は法輪大法を修煉した後、今まで患っていた病気はすべて良くなりました。それだけでなく、名、利、情に対してあまり気にしなくなりました。特に法を正すこの数年間、私は毎日、学法し、煉功し、発正念をし、外で真相伝えをして、決して時間を無駄にせず、やればやるほど順調になりました。私は『洪吟三』を紙に書き写して、バスに乗るとき暗唱しました。今は全部暗記できるようになりました。私は題名を書いた紙をカバンに入れ、時間があれば、題名を見て暗記しました。また、寝る前に、必ず『論語』を暗唱しています。
自分の道を切り開く
私は郊外に住んでいます。ここの大法弟子はとても少なく、真相を知らない人が大勢いました。数年前、邪悪の迫害がもっとも厳しい頃、私の知っている何人かの同修全員がそれぞれ迫害を受けました。3~4年前に、同修が真相資料を少し持って来て、私は近くに配り始めました。しばらく経って、この地域はほとんど一通り配りました。私はほっと一息ついて、全部やった、もう終わりだと思い、資料を減らしてくださいと同修に言いました。当時、私は迫害の重要人物とみなされ、地元の警察がしょっちゅう家まで妨害に来たため、家に資料を多く置くのは安全でないと思いました。しかし、ある日の夜、同修がタクシーで、二つの大きな袋の真相資料を持ってきました。400部ほどあったように思います。私はとても不機嫌になり、怖くなって、迷惑だと思いました。
こんなにたくさんの真相資料を家に置くのは安全ではありません。私はどこに配ったらいいのでしょうか? 私は悩みました。私の家の近くはすでに一通り配りました。しかも、すべて夜散歩に出かける時に配ったのです。しかし、夜に1人でよその村に行くのはとても難しいことです。道は遠いし、街灯もなく、見えないため、自転車には乗れません。もちろん、夜間にバスは走っていません。農村の夜は犬が多くて、昼間は暇な人が大勢います。また多くのお年よりや女性たちは道端でおしゃべりをして、見知らぬ人を見たら、誰の家を探すのかと徹底的に聞き、姿が消えるまで見届けるのです。しかし、こんなにたくさんの資料を家に置くのは問題なので、私は試しに自転車で昼間に近くの農村に資料を配りに行って見ました。一回に20部ぐらい持って行き、配り終えたら、急いで帰って来ました。しかし近くの村は全部一通り配った後なので、どうしましょうか? 別のところは知りません。そこで私はバスに乗ってさらに遠い所に行って見ました。私は重複しないように、毎回帰って来たら、必ずメモを残しました。こうして、やればやるほど順調になり、やればやるほど数が多くなりました。この数年間続けてやって来たら、今まですでに230余りの村落に、250数回行きました。それは、二つの市と三つの区、また二つの県のたくさんの村落といくつか団地が含まれています。その後、私は同修に「当時、あなたがたくさんの資料を持って来てくれなかったら、私は自分の道を歩き出すことができなかったのです。本当にありがとう」と言いました。
灼熱の太陽が照りつける道
私は常人の中で強い人間でした。ほとんど涙を流すことがありませんし、何をしても、厳格かつ迅速で、決まったらすぐ行動に移しました。大法のこともすべて1人でやって来ました。バスの停留所で、村名を見て、すぐ出発します。時々、村落を通りすがり、或いは近くに村落があると聞けば、或いはどこで乗り換えれば、どこの村に行けるなどの情報は全部紙にメモをして、時間を見つけて行くようにしました。一つの村に入ると、私は、東から西まで、あるいは北から南まで、村落を満遍なく一周します。できるだけ縁のある人を抜かないように、DVDや小冊子を門の内側に置き、あるいは車のウィンドークリーナーに貼ったり、車のドアの取っ手や、自転車の籠に入れたり、或いは目立つところに置いたりします。今年はまた面と向って神韻DVDを送るようになりました。時には、村が大きくて、資料が足りない場合、私はその場所をしっかりと覚え、次回再度届けるようにしました。時には村落が小さくて、残りの資料を持ち帰ることもあります。
私はお祭りの予定表を持っています。村にお祭りがあれば、私は行きます。お祭りの日は、友人や親戚がお互いに訪問しますから、彼らが真相資料を手に入れると、互いに回覧し議論しますので、多くの人に真相を知ってもらうことができます。DVDを受け取っていない人の家にも、親戚や友人はそのDVDを持って行きますから、無駄にならなくて済みます。お祭りのない村の場合、私は昼間に行きます。その時間帯はみんながご飯を食べたり、休みを取ったりしていますので、街には暇な人はほとんどいません。春と夏は特にそうです。このようにすれば、たくさんの資料を速く配ることができます。彼らが午後家を出る時、真相はもう目の前に待っているのです。
私はいつも朝、正念を発し、煉功して、本を読み、少しご飯を食べ、きちんとした格好をして、準備した資料をカバンに入れ、一本の水を持って出かけます。冬にはりんごか、梨を二個持参します。それは食事の代わりにもなるし、水分も取れます。無駄なものをできるだけ持たないようにします。リュックサックにマーカーペンを入れ、適当な場所があれば、真相を書きます。真相を伝える電話も必ず持ちます。資料を配りながら、電話を掛けます。他の人には、人を探していると思わせ、身を隠すこともできます。車を待つ時も電話をかけられます。また真相貨幣を必ず身に付けます。毎回家を出る前に、私はこれらのものをそばに置いて、まず発正念をし、師父に加持をお願いし、正神たちに加護を頼みます。正念を発してからリュックを背負って出発します。その後、近くの地域を全部やり終えて、さらに遠くへ行きます。時には車を3~4回乗り換えます。自転車で10キロ先にも行きました。
ある時、お祭りの予定表を見ると、二つのお祭りをやっているのが分かりました。しかし、一つのお祭りは東にあり、もう一つは北にありました。私は2袋の資料を用意して、1袋を提げて、1袋を背負って出発しました。車を3回乗り換えて、東の方の会場に着いて、下車して見ると、人影もなく、お祭りをやっている様子がまったくありませんでした。人に聞くと、お祭りは昨日でした。予定表の印刷が間違っていました。村まで、2キロもあり、とても辺鄙なところでした。しかし、衆生に早く真相を知ってもらい、済度しなければなりません。正午の灼熱の太陽に照りつけられ、2袋の資料を持ってはそんなに遠くまで歩けません。周りに人がいないのを見て、私は1袋の資料をトウモロコシ畑に隠し、目印をつけ、正念を発して、それから厳しい日差しの中、もう1袋の資料を背負って村に向かいました。天気はあまりにも暑くて、靴底が薄いので、道路を歩いていると、プラスチックの靴底が溶けそうになりました。正午の路上には人も車もありませんでした。私は1人で道に迷って、分かれ道でどこへ行けばいいのか分かりませんでした。水を取り出して一口飲み、のどをすこし潤しました。一気に飲んだら、すぐになくなりますので、そこで飲むのをやめました。私は師父の経文「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[1]を暗唱しながら、道を進みました。歩いているうちに村落が見えました。さっきは農作物に遮ぎられて見えませんでした。村に入って見ると、涼んでいる人もいれば、昼飯を食べている人もいました。村落は大きくなく、私は資料を出して、真相音声の電話をかけながら、縁のある人が真相を得るように、お互いに回覧するようにと正念を発しました。全村を一巡して、残った資料をまた背負って、元の通りに帰ってきました。
私は目印をつけた所でもう1袋の資料を取り出しました。私は北の村に行くかどうか迷いました。正午の太陽はとても強く、距離もこんなに離れており、道路は溶けそうになっていました。私はもうすでに往復で約5キロも歩き、足はあぶられて骨身にしみるほど痛く、お腹も減って、疲れ切っていました。また、暑くて喉が渇き、本当にそれ以上歩けませんでした。しかし、今日、北の地区のお祭りには人が多く、村の人やその親戚、友人達に真相を知ってもらわなくてはならない、それに家の帰り道にも少し方向が一致していると思いました。私はまた車を2回乗り換えました。その時、ちょうど午後3時頃でした。天気は更に暑く、車の天井の鉄板にあぶられ、顔がきりきりと痛みました。車から降りたら、足は焼けた鉄板の上を歩いているように、地面につくことができないぐらいでした。一歩進んでも、きりきりと痛みましたが、無理をして、足の側面で歩きました。また2キロぐらい歩いて村に入りました。ここは山坂にある村です。山道はでこぼこして歩きにくく、私は資料を配りながら、発正念をし、真相電話をかけました。また、休んだ時、真相を伝えて、三退をさせました。それから村を出ました。帰り道を歩きながら電信柱や適当な所に真相を書きました。せっかく来たのだから、多くの人を助けなくてはならない、次回はいつ来られるかわからないと思いました。私が家に帰った時はすでに午後6時を過ぎていました。靴下を脱いで思わず涙を流しました。足裏には卵の大きさの水ぶくれが二つありました。痛くて、疲れ過ぎました。家に誰もいないのを見て、1人でこっそりとしばらく泣きました。しかし衆生を済度することができ、多くの人が助かるなら、これぐらいは大したことではありません!
また資料を配りに行くとき、私は1袋の資料を背負って、バスに上がろうとして、足がバスのデッキにぶつかり、痛くて、バスのデッキに伏せて起きられなくなりました。これは邪悪が行かせないように妨害していると分かっていました。私は邪悪を解体するよう正念を発しながら、歯を食いしばって上って席に着き、足を一目も見ないようにして、ただ師父のご加護をお願いしました。車が15キロ走ったところで、私は降りました。私は足のひどい痛みを耐え忍んで友人の家に行き、自転車を借りました。その村落までバスが開通していないため、私はさらに2~3キロ走ってから、自転車を推して歩かなければなりませんでした。私は自転車を押しながら、一軒一軒に資料を配り、全村を一周しました。縁のある人に真相を知ってもらい、お互いに回覧するようにと発正念をしました。家に戻った後、足を見ると、びっくりしました。ズボンも上に上げられないほど、足がパンパンに腫れて、蒸しパンよりも大きくなり、真ん中の一つの大きい傷口から血にぽたぽた滴っていました。私は涙をぽろぽろ流し、大泣きしました。どうせ誰も知りませんから。
修煉は時にとても辛いものです。冬は酷寒の地で、顔が腫れるほど凍りつき、夏は炎天下で、腕の肌がむけて、足には水ぶくれができます。食わず飲まずは日常茶飯事です。特に農村の条件はとりわけ悪いのです。そのほかに、更に安全に注意しなければなりません。しかし私達は法を正す期間の大法弟子で、世界で最も幸せな生命です。多くの人を助けることができさえすれば、このぐらいの辛さはたしたことではありません!
(続く)
注:
[1]『洪吟二』「正念正行」
(明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)