文/陝西省の大法弟子 衆智
【明慧日本2013年12月2日】明慧交流の文章で、よく「私たちが口を修めていない時、言い出した言葉は同修の空間場に悪い物質を加えることになる」というような言い方が見られます。しかし、こういう言い方ですが、師父がどの経文で言及されたものか、もしくは同修は師父のどの経文を見て悟ったものかについては、どの文章にも書かれていません。
その言い方は、今すでに地元の同修によく使われていて、一部の同修は極端に走っています。例えば、地元に邪悪の残酷な迫害に遭い、現在はとても悪い状態にある同修がいます。歩けなくて、食欲がないか、もしくは食べ出したら止まらなくなり、学法と煉功もできません。しかし、このような確かに存在している真実を誰かが触れると、すぐ他の同修に制止されて、「これは彼の空間場に悪い物質を加えることに等しい」と言われます。さらに、一部の修煉者は良くない人心を暴露してしまい、もしくは間違ったことをしてしまったときに、それを同修に指摘されると、「私の空間場に悪い物質を投げないでください」と言って、自分の「誰にも指摘されたくない」執着心を隠します。現在、地元では誰もが同修のミスを指摘する勇気がない状態になっています
今までまだその現象に関する交流文章は見られていません。では、自分の未熟な意見をここで言い出したいと思います。
大法弟子の体にエネルギーを帯びていることを、誰もが分かっています。しかし、修煉者の体はエネルギーを帯びているが、修煉の次元とエネルギーの強弱があって、同修から妨害を受けることもあり得ると主張する修煉者がいます。その考え方は間違っていませんが、一つの極めて重要なことを忘れていませんか。つまり、すべての大法弟子は師父が面倒を見られているということです。
修煉者の空間場には全く悪い物質が入って来られないのですか? そうではありません。天目が開いた修煉者は、悪い物質が自分あるいは他の同修の空間場に入った光景を確かに目撃したことがあります。また、悪い物質が入ることを自らの体で感じたと言う修煉者もいます。そのことについて、私は二つの原因があると考えています。一つは、天目で見たのは、彼の所在の次元で見てもいい現象を師父が彼に見せただけで、本当の真実は誰も見えないはずです。もう一つは、その悪い物質は修煉者が業力を返すことに関係しているかもしれません。
また、修煉者は歪んだ思いを抱えて、あるいは求める心が生じた時も、自身の空間場に悪い物質を持ち込むことができます。例えば、自分の悪口が言われているという噂を聞いた時、怒ったり恐れたりすると、悪い物質を招く恐れがあると思います。なぜかというと恐れること自身は一種の求めることであるからです。
私は現地で協調を担当しており、自分の修煉がまだ至っていないため、あれこれと問題が現れて、陰で私の悪口を言う同修がいます。それに対して、最初、私はとても腹が立ったり、愚痴を言ったりして、または相手と口論までしました。心性の向上につれて、心はだんだん穏やかになって、自分の悪口が言われているという噂を聞いたら、私はまず第一に、内に向けて探します。その時は自分の執着を探す絶好の機会で、執着が見つかった後にそれを取り除いて昇華します。第二に、悪口を言われても気にしません。周囲の同修が私よりはるかに修煉の次元が高くても、彼の言葉は私に対してきっと何の作用も働くことができないと、私は固く信じています。なぜかと言うと、私には師父がいるからです。
難に陥った同修のために発正念をする時、たまに自分の体に頭痛などの不調が現れたりします。その時、頭に湧いてきた第一念は辛抱や我慢ではなくて、第一念はその不調を排斥して否定することです。その不調は旧勢力の妨害であり、絶対に認めてはいけないものであるからです。旧宇宙に「相生相克」という道理があって、相手に治ってほしいなら、自分が代わりに彼の苦難を引き受けないといけないという道理です。しかし旧宇宙は間もなく淘汰されるもので、旧宇宙の全ての道理も認められません。私たちは師父の要求に、つまり新しい宇宙の基準に従っているので、私たちのしたことは最も正しくて最も優れたことになります。私たちを妨害することは罪になります。もしある修煉者が上記のような正念を保てれば、師父と正義の神様たちはきっと彼を支えて守ってあげると思います。
明慧の交流文章に「私たちが口を修めていない時、言い出した言葉は同修の空間場に悪い物質を加えることになる」と言ったのは、作者が修煉者の皆さんに口を修めることを重視するよう提起したいからだと思います。大法の基準にそぐわないことを言ったら、他の同修に必ず悪い作用を働くとは限りませんが、自分は確かにそれで業力を作って、自分の修煉に人為的に苦難を増やしてしまうと思います。これは本当に修煉者一人ひとりが重視しなければなりません。
ある日、交流の時に話題が同修Aさんに触れた時、嫉妬心、顕示心、他の人を軽蔑する心などに駆使され、私はなんとAさんの悪口をたくさん喋りました(喋る時に業力も作っていると当時の私はまだ自覚しなかった)。同修Bさんは善意をもって、婉曲に私の話を断ち切って、「今の話はここまでにしましょう。話題を変えましょう」と言いました。Bさんの言葉に私は呆然となって、自分が間違ったとすぐに分かって、内心で急いで師父に懺悔しました。その事を通じて、口を修める面で私はまだまだ至っていないことを痛感しました。
不適切なところがあれば、同修たちの慈悲なるご叱正を仰ぎたいと思います。