文/中国の大法弟子
【明慧ネット2013年12月19日】最近、同修と交流する時、私は優しい気持ちを保つことがずっと出来ていないことに気が付きました。表面上は穏やかで角が立っていませんが、内心では同修が話している法理に対する悟りや理解を否定して、大言壮語していると軽蔑しています。また最近、ふだん付き合いが多い数人の同修とちょっとした口論をして疎遠になり、彼らに会いたくなく、顔さえ見たくありませんでした。自分の状態に問題があると思いますが、どうしてこうなったのでしょうか?
1999年7.20以前、皆で集まって交流する時はこうではありませんでした。当時、同修が集まると、法理に対して誰かが自分の理解を話すと、皆が真剣に聞き、話した内容が正しいか、間違っているかについては論争しませんでした。本当に皆が穏やかでした。一方、今はどんな事に対しても全員に各自の認識があり、論争も多くなって、誰もが自分の認識が正しいと思っています。まさかこれが修煉における「成熟」なのでしょうか?
ある日、現地の数人の大法弟子が集まりました。現地の同修Aさんの言動は、修煉者にも常人にも良くない影響を及ぼしていることが話題になりました。「このような大法弟子は、将来どうなるのだろう」から始まって、在席の大法弟子はまるで医者に変身して、Aさんに修煉を改善する処方箋でも出すかのように、ああだ、こうだと次から次へと発言しました。誰の話も理に適っているようで、誰もが自分の認識と分析は正しいと思っていますが、私は同修たちの意見が正しいとは思っていませんでした。しかし、自分の考えを言い出すと、他の同修が傷つくことを恐れて(実は、自分が傷つけられるのを恐れただけ)、何も言いませんでした。
その時、私の心の奥深くから声がして「彼らは表面上の現象しか見ておらず、私の認識こそ正しく、法理に合致している」と言っていました。あるようでないようなその声は、私の肉体をあれこれ遠隔操作しています。名、利、情、人心、執着も含めて、どんなに小さい一念でも、その声が「源」です。それはいったい何でしょうか? それは「自我」であることがやっとはっきり分かりました。それが存在する限り、それはいつでも私の表面の肉体を遠隔操作することができ、私のすべての言動は結局それを中心にして展開するのです。
師父が『ロサンゼルス市法会での説法』で、旧宇宙が法を正すことに対する態度について言及されたところに、「彼らは「このことに私たちを含めている以上、あなたたちが思うままに私を処置するなど、黙っていられるものか。私も無量の衆生を持っていて、私もできるだけ、選択してもらいたい」と考えているのです。」とおっしゃいました。
それを読んだ当初、それほど高い次元の生命がどうしてそのような考えを持つのでしょうか、そんな考えを持つ生命は、高い境地にいる資格がないのではないかと考えました。どんなに高い境地にいるかに関わらず、心にまだ自我の要素が存在すれば、相手に気分が悪く、目障りな感じを与えることが今になって分かりました。自我、私心をきれいに取り除いてこそ、はじめて広々として、神聖かつ純潔な境地に達することができるのです。
それを悟った後、私の心は一気に明るくなりました。それから発正念の時、「自分の心の底にある自我を徹底的に解体して、最も表面から最もミクロまで、自分の体を無条件に真善忍に同化させる」という内容を加えました。その後、交流する時、また同修と意見が一致しない時、私は「その自我を強めません。口論が発生すれば、同修の認識を自分の認識に同化させるのでなく、真・善・忍に同化するのだ。相手が誤って認識していない限り、論争する意味はないのだ」と考えます。
以前、その「自我」に心が揺り動かされて激しく起伏し、トラブルに遭うと、表面上の正しさばかりを見ていました。実は、表面上の現象だけを見て、内に向けて探すことがまだ不足しており、深層にある自我の源を掘り出す必要があります。なぜならば、どの念でもどの心でも、すべて深層にある自我と繋がっているからです。自我を持っていれば、生命の価値が下落し、自我が多ければ多いほど、価値はもっともっと落ちていきます。
私が最も難しいと感じたのは、自我を取り除く勇気がないことではなく、自我の現れが分からないことです。師父が『精進要旨』「佛性に漏れなし」で説かれた「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」の通りにしてこそ、はじめて修煉における真の成熟であり、そして、ようやく先史の誓約を果たすことができるのです。