文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年1月9日】師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!
私は協調の仕事をする中で如何に人心を除去して観念を変え、全体に円容したかの体得を師父と同修の皆さんに報告したいと思います。
一、恐れる心をなくし、協調の仕事を引き受ける
私が所在する都市は大法弟子に対する迫害がとても深刻な地区で、特に2008年北京オリンピック前後、当地の修煉環境は大いに破壊され、同修の間に大きな間隔ができてしまいました。他の地方の学習者がしっかり「三つのこと」を行っているのを見て、当地区の皆さんと同じように焦っていましたが、自分が協調人になり、皆さんをリードして現地の修煉状態と修煉環境を改善することは、思いもしませんでした。それは危険すぎる仕事だからです。労働教養所から出た後、安全を考慮して、衆生を救い済度することにおいて、私は、真相を受け入れそうな常人だけに真相を伝え、文章を書いて投稿することだけに限定しました。その二つはわりに安全だからです。
しかし、2011年の後半から、私が接触した同修たちは口を揃えたように、よく「全体」に言及し、同修Aさんは私が「協調人になる条件が揃っている」と言いました。私が断ると、Aさんは、自分のしたいプロジェクトだけをやるのは良くない、当地区の衆生を救うことを第一位に考えないといけない、と言ってくれました。彼の話を聞いてから、自分一人の安全だけを懸念するという私心をやっと発見しました。以前の旧宇宙の生命、何かをする時の出発点はすべて「私」のためなので、だんだんと私心が重くなり、少しずつ下へ落ちたのです。一方、師父は我々に無私無我で、何でも相手のために考える覚者になるように要求されています。当地区の大法活動が私を必要とする時に、私は個人の安否を度外視すべきだと認識し、進んで自分のできる仕事を引き受けました。
協調人になってから、全体の協力を必要とするはじめての案件は、拘禁中の同修Bさんを救出することでした。Bさんの家族、および弁護士に連絡することはとても重要でした。しかし、Bさんは邪悪に厳重に監視されている「重点人物」で、ふだん私と彼はよく接触していたため、私自身も暴露されるのでは…と考えると不安になります。「自分の安全のために、何もしないほうが良い」と言ってくれた同修もいて、私自身もこの件は邪悪に目を付けられていない同修に委ねたかったのです。しかし、Bさんの家族を熟知する人は私とCさんしかいなくて、Cさんは私より厳重な監視を受けています。危険を同修のところに回してはいけません。自分でやるべきだと思いました。
初めてBさんの家族に付き添って弁護士に会いに行った時、弁護士は、彼自身も公安に重点的に監視される対象だと言いました。以前、法輪功修煉者の救出活動で捕まえられた人がいるのか、と私は不安を抱えて聞くと、弁護士は「普通、家族は大丈夫だ、弁護士に依頼することは家族の正当な権利だから。弁護士も弁護の仕事をしているだけなので、同じく捕まえられることはない。家族に付き添って来る法輪功学習者だけが尾行されたり逮捕されたりする恐れがあり、実際に逮捕された人もあった」と教えました。それを言う時、彼は携帯電話をテーブルの上に置いていました。それはすべて私の恐れる心に向けたものと意識し、私は歯を食いしばって、「邪悪を恐れない、正念を持って最後まで続ける」と決心しました。
それから、毎回弁護士に会う時に、私はそのように心を正しました。この件に協力する同修もだんだん多くなり、皆は全体を形成して、救出活動も進展が見えました。師父の加持の下で、全体の正念場の中で、私は守られており、安全で安心だと感じて、恐れる心はだいぶ少なくなりました。初めて弁護士に会った日に聞いた言葉を思い出せば、あれは明らかに私を試練する一つの虚像だったのです。
二、協調する中で自分を修める
以前、何回も迫害された教訓をまとめると、いずれも大法の仕事そのものに執着して、仕事を多くやれば修煉の次元も向上したと自惚れてしまい、根本的なこと、つまり心性を修めることを忘れて、邪悪に隙に乗じられたのです。
協調人は他の同修より偉いことは何一つなく、仕事の分担が違うだけだと認識しました。大法の仕事を修煉者らしく真剣にやらないといけません。協調の仕事を自分の修煉そのものとして考え、大小を問わず、出会ったすべてのことに修煉者の心構えで対応するようにと私は自分に言い聞かせました。
私には仕事があり、家に帰ったら両親の面倒を見て、真相も伝えなければならず、またBさんの救出に協調しないといけません。毎日どんなに忙しくても、私は学法を第一位に置きました。もし今日まだ学法をしていないのなら、私は大法の事を少し先送りしても、まず学法を保証します。そうすれば、大法の事に支障をきたすことなく、かえって頭がすっきりして、大法の事はもっと秩序よく運んでいきました。
集団学法の形を再開するのは当地区の大法弟子を一丸にさせる重要な方法だと皆は共通に認識しています。みんなの努力の下で、複数の学法チームを設立しました。私は一つの学法チームに参加しました。最初の2回、『轉法輪』を一講読み終わったら、私はすぐに相談事をもち出して多くの時間をかけましたが、解決の糸口が見えません。しかも、皆のテンションはあまり高くないと感じました。そのまま続けると、来る人が減っていく傾向が見えそうです。問題はどこにあるのでしょうか? 自分はまた大法の事を常人の仕事のように扱っている、と原因を発見しました。それから『轉法輪』を読み終えたら、私たちはまず各自の修煉体得と出遭った問題点をめぐって交流しました。そうすると、毎回みんなはとても収穫があると実感して、やる気もだんだん高くなりました。最後に少し時間を作って具体的な事を相談すると、すぐに一件一件と前へ推し進められます。交流の中で心性が高まってきたため、誰もが進んで仕事を引き受けるからです。ここに人手が足りないと言えば、すぐに誰かが自ら手を挙げてそこを補ってくれます。本当に師父がおっしゃった通りに、大法弟子は「心」を用いて事を行っているのです。
Dさんは深刻な病業に陥っており、私はよく発正念を行って、彼女に内に向けて探すことも促しましたが、彼女の状況は一向に良くなっていません。人工呼吸器を使用せざるを得ない状態で、病院から「危篤通知」も出されました。ある同修は私に「Dさんは長い間、法を学ぶことが表面上に止まっており、あまり法理を理解できず、心に法を覚えていない状態だ」と教えてくれました。それはとても危険で、いつ旧勢力に命を奪われてもおかしくないのです。それから、彼女を見舞う時、私たちは会話を少なくして、多くの時間を彼女と一緒に学法しました。特にEさんは盛夏の暑さを耐えて、毎日昼の休憩時間を利用してバスに乗って病院へ行き、Dさんと一緒に学法をしていたことに、私はとても感動しました。
みんなの努力の下で、Dさんは徐々に回復して退院しました。彼女は進んで学法計画を立てました。昼間に、年配の同修は彼女と一緒に『轉法輪』を読み、『論語』、『洪吟』を暗記して、夜、若い同修は彼女と一緒に経文を読みます。1週間後、彼女は大きく変わって、元気いっぱいになって、顔色が赤くつやつやして、食事も喉を通るようになりました。特に、法理がはっきり分かるようになって、内に向けて探すことを覚えたようです。彼女に向けて一句一句経文を読み上げる時、私は大法の巨大なエネルギーの中で溶けた感じがして、頭いっぱいに経文の言葉が満ちて、全身に法輪が回っているようでした。彼女は私の読み上げを聞きながら頷いたりして、見た感じでは本当に大法の法理を理解したようです。
その日彼女の家を出た私は、内心が夜空と同じように清らかになって、学法することの心地良さを深く感じ、言葉で言い表せない喜びがありました。突然、師父が『ヨーロッパー法会での説法』におっしゃった「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の法理がいっそう深く分かりました。そうですね。もし体のすべての細胞が大法の中に溶けたとしたら、その体はまだ常人の体と言えますか、彼はつまり神になったのではありませんか。そうすると、邪悪が彼を動かすことがあり得えますか? Dさんは病業からきっと乗り越えられると、私は信じました。師父がどうして繰り返し私たちに多く法を学ぶようにと言い聞かせるかを、深く理解できました。私たちがしっかり法を勉強して、無条件に大法に同化しさえすれば、大法にできないことは何一つないのです。
一方、Bさんを救出する過程で、私は進捗状況を直ちに同修たちに報告して、皆さんに発正念、邪悪部門の情報収集、迫害を暴き出す文章を市民に配るなどを依頼しましたが、同修たちの反応はとても冷淡で、何人かに聞いた結果、ほとんど動いていない状態です。この件を前に推し進めることはとても難しく、私は疲れていました。また、私は綺麗ごとばかりを言い、大法の仕事そのものに執着する、情と人心を帯びて大法の仕事をし、同修にプレッシャーをかける、同修の修煉を邪魔した、などなどのうわさが私の耳に入りました。私はとてもつらい思いをして、「全体を形成すると皆は言ったではないか? どうして誰も協力せず、私だけが忙しくしなければならないのか」と同修たちに対して不満が生じました。協調人を辞めてBさん救出のことも中止しようと一時考えましたが、しかし当地区の全体的協力は始まったばかりで、旧勢力は一生懸命に妨げている、こんな肝心な時にもし私が退陣したら、まさに旧勢力の罠に嵌められたのではないか、と私ははっきり分かっています。
私はマイナス的な情緒を抑えて、冷静になって原因を探し始めました。しかしあれこれと探して、見つかったのは他人の問題点ばかりです。学法チームが少ないとか、同修の間で交流が足りないとか、協調人の間も連絡が足りないなどなど。Aさんと交流をすると、彼は私の仕事の進め方に問題がある、まだ常人組織の責任者のように指示を出して、部下が実行するという形を取っている、と指摘しました。また、「修煉者からなる全体は常人の組織と違って、どの粒子も自分の道を歩んで、同時に集団学法と交流を通じて共に精進し、全体の心性が高まってきたら、大法の用事も自然にすらすら前に進むので、協調人はそこまで疲れる必要もない。皆にとって、大法の用事をするのは修煉そのものであるため、とても幸せな事だ」とも言いました。
彼の言葉は棒喝のように私を目覚めさせました。私はずっと外部に向けて原因を探したのですが、問題の根源は自分にあることにずっと気付きませんでした。なるほど、私は修煉者らしく大法の事をしたいが、考え方と仕事の進め方が常人のままで、観念を変えなければ、それはやはり常人が大法の事をするに等しいのではありませんか? 邪悪に我々が妨害する理由を与えたことに等しいのではありませんか? だからとても困難を感じたのです。
また、自分のやり方に共産党文化の毒素がたくさん残っています。例えば、皆に通知と呼びかけをしたが、具体的な時間、場所、路線、内容などを詳しく説明していません。同修たちに「現地の迫害実情をダウンロードしてください」とだけ言って、具体的に明慧ネットのどこから、どんな内容をダウンロードすれば良いかの説明も足りませんでした。「現地の関連政府部門に真相電話をかけてください」だけを言って、具体的な電話番号も提供しておらず、同修たちは次の行動になかなか移行し難いのです。
これだけ多くの事は私一人で決して完成できませんが、皆と相談せずに、ついに「一人作戦」になってしまいました。皆と一緒に仕事をうまくやりたいという誠意が、自分には足りないのかもしれません。そのために、いつの間にか「自己を実証する」執着ができてしまいました。
内に向けて、上記の執着と観念が見つかった時、重荷を下したように心が軽やかになり、今後どうすれば良いかも浮かんできました。それ以降、現地の修煉環境にスパイが現れて、人身攻撃のデマを広めても、私は心が動じませんでした。私はちょうど『各地での説法九・二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』を習っていたので、師父は「なぜ大法弟子の中でこのような人が現れ、なぜこのことが起きたのか、彼は一部の人に対して行なったのではないか、幾つかの人心に対して行なったのではないかとなぜ考えないのでしょうか? 必ずそうです。修煉の中でいかなる偶然な事もありません。私たちの中で正しくない状況と良くない人の行為が現れたとき、それは人心に目掛けてやってきたのです」、「修煉の中で自分を多く見るべきです。どんな問題が現れても、まず自分を考え、そのことを行なう人たちを考えれば、問題の根源を突き止めることができるかもしれません」とおっしゃいました。それで、私は集団学法の時に自分の執着、および悟ったことを皆に話しました。たくさんの同修も立ち向かって、正念で妨害を排斥しました。ある同修は「当地区の大法弟子は全体を形成しようとしているので、邪悪は恐れて邪魔をしています。私たちは更に自分をしっかり修めて自我を放下して、他人に協力して、難攻不落の全体を形成しなければならない」と言いました。邪悪は我々を妨害することができず、かえって私たちを鍛えて、成熟させました。
その事を通して、私たち大法弟子が全体になれることは、常人の仕事の進め方、能力、管理手段によるものではなく、修煉によるものです。常人の方法では常人の組織しか作ることが出来ず、大法弟子の全体を形成させることを決してできません。一人一人の心性が上がれば、無理に推し進めなくても、自然にうまく協力できる、と私は分かりました。だから、今私は同修たちと一緒に最も基礎的なこと――集団学法と交流を再開することに力を入れています。
三、全体に円融する粒子になろう
法律を武器にBさんを救援する計画について、現地同修の間で意見が分かれています。私はこの件に力を入れるべきと主張しますが、ほかの協調人は他の大法プロジェクトをより重視しています。私は繰り返しBさん救出の件の意義を強調すれば、彼らは他のプロジェクトはもっと皆さんを一丸にさせることができ、衆生を救う効果が大きいと主張します。しかし私は彼らの主張にも一理があると思うと、すいすいと彼らの考えを受け入れて、彼らの視野は自分より広いことが分かりました。そして、プロジェクトそのものに執着してはいけない(もし執着すれば、即ち自我に執着することになる――「これは私がしているプロジェクトだ」、「どのように進めるかを私は考えている」などを強調してしまう)、表面の結果は最も重要なことではなくて、重要なのは、やっている過程で私たちは邪悪を暴露し、人々に真相を伝え、全体的に向上したので、今手掛けているプロジェクトがたとえ中止になっても、今までの努力は無駄になることはなく、きっと今後の参考にもなる、と私は悟りました。そこで、私は自分の考えを他人に強要せずに、楽しく彼らのプロジェクトに協力しました。
協調をすると、よく同修から違う意見や非難と誤解の言葉が飛んできます。メンツを重んじてプライドが高い私は本能的に説明と弁解をし、ある日、某同修の話をする時の口調と態度が気に食わず、激しい口論までしました。事後、内に向けて探していないことにとても後悔しました。実は、表面の是と非、正しいかどうかは重要ではなくて、修煉者の心性が高まったかどうかを神は重要視しています。耳障りなことが聞こえると、メンツを重んじる心を除去する良い機会ではありませんか? 協調人になったからこそ、そんなに良い機会に恵まれるのです。今の私は、自分の考えと異なる意見を耳にする時、まず同修の善意を理解しようとし、たとえその言葉の中にほんの少し道理があっても聴取しなければならないと思って、同時に心の中で同修に感謝します。誤解される時、もし大法の事に影響が出なければ、私は釈明などをしません。善の念を保って、他人にどう思われるか、どう議論されるかを気にしません。
以前、私はよく同修の良くないところに目をつけて、同修の欠点を取り上げて議論したりしました。掘り下げて分析すれば、あれは嫉妬心と顕示心がもたらしたもので、同修の間に隔たりを作って、全体を損なってしまうことしかできませんでした。常人に対しても同修に対しても慈悲の心を持つようにと、師父は私たちに教えておられますので、頭の中のマイナス的な考えを捨てて、同修の良いところを見るように、自分に言い聞かせました。そして、トラブルが過ぎたら頭の中でその同修に対して観念を形成しないことも大切です。相手は修煉の中で絶えず変化していくからです。同修のよく修めていないところを包容してあげれば良いではありませんか。
師父は『二〇〇三年旧正月の説法』で、「皆さんが集団で何かをするにしても、自分一人で何かをするにしても、皆さんは同じことを行っています。これが一つの全体ということです。皆真相を伝えており、正念を発し、法を勉強しているため、具体的な仕事が違っても、担当は秩序良く分担されています。集まれば形になりますが、散ってしまえば粒になります」と説かれました。協調人はまず大法弟子であり、大法弟子がするべき「三つのこと」において何も特別なことはなく、もっと多く貢献しなければなりません。いくつかの画策や協調の事をしただけで満足してはならず、真相を伝えることにおいて、他の弟子と同じようにしないといけないと私は思っています。そのため、自分が全体の中の一粒子としての機能を私は充分に重視して、現地の真相を伝える仕事を積極的に分担しています。
勤め先で、同級生の飲み会で、買い物する時、タクシーに乗る時…私はできるだけ機会を掴んで多くの人を救うようにしています。神韻のDVD、『中国共産党についての九つの論評』を配り、真相貨幣を使用して、「三退」を勧めるなど…要するに、できることは何でもしています。
自分は法を正す時期の大法弟子の基準からまだ遠く離れていることを充分に知っています。これほど多く挫折しても、師父は再三に機会を下さいました。私は今後ただ頑張ってよく自分を修め、はじめて師父を安心させることができ、はじめて修煉の機縁に申し訳が立つのです。
(明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)