文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年4月23日】「消沈」というのは、一種の消極的な気持ちです。私はこの消極的な気持ちに縛られた時、何もしたくなく、何をやっても集中できずぼんやりしています。人と交流したくもないし、どんな人でも自分のわだかまりを解かすことが出来ないと思い、気が重くなり、どうしても元気が出ません。実は自分には執着心があったのです。それで「消沈」は、表面的にいろいろと現れるようになりました。
修煉する前の自分は、このような消極的な気持ちがある時は眠ることにしていました。そうすると、目が覚めると何もかも忘れてしまうのです。このような苦しみが長く続くときもありましたが、何日か経つと自然に気分がよくなりました。修煉を始めてからは、この消極的な気持ちは少しずつなくなっていきました。しかし、2ヶ月前、なぜか再び現れました。しかも、今だに続いています。この「消沈」は一体どのようなものなのでしょうか?
一般人にとって「消沈」は一種の情であり、「消沈」が存在することで人間の興奮する感情をいっそう引き立てています。そうすることで人は楽しい暮らしを味わうことができます。しかし修煉者にとっては一種の魔であり、「情の魔」の表れなのです。それらのせいで修煉者は落ち込んだり、しょんぼりしたり、自分で自分を制御することが出来なくなったりします。また、修煉者の意志を壊し、ひいては修煉が出来なくなります。このような消極的な気持ちは人を傷つけないので、他の人は気付かずに、重視もしません。この面から見ると、それらのものは上手に隠れています。
「消沈」は往々にして、長い間執着心を放下しなかったり、特に「情」に関する執着心にかかわっています。私達はしばしば難儀に遭遇したとき、人心で物事を考えます。自分の得ることと失うこと、そして、自分の感じることを重んじています、このようにすると、考えれば考えれるほど、抜け道がなくなります。それによって、自分は窮地に陥っていることに悩みます。これは自分の執着心を放下できずに悩んでいるわけではなく、ただの「消沈」です。師が法を正す時期に、旧勢力はこの「消沈」を強めました。そのため、修煉者はさらに抜け出すことができなくなりました。
自分に例えると、今私は楽な仕事をしています。しかし、どうしても楽しく仕事ができません。その理由は、職場の人たちのことがあまり好きではないからです。もともとあの人たちは仲がいいので、私には近づきません。それで、自分は一人ぼっちだと思い込んでいました。実は「情」のせいで自分は彼らを救い済度する心がなく、逆に、人間の「情」を求めていたのです。もっと深く考えると、自己を保護する心もあります。「誰々とは仲がいいから、真相を伝えるときに危険性がない」と思い、「誰々との関係はまずいから、自分に不都合である」と思い込んでいて、衆生を救い済度することを優先しなかったのです。自分の感受を重んじ、自己のこの「私心」を守っていました。
人心で問題を考えると、ますます絶望的になったり消沈します。修煉者の立場から見ると、良いことも、悪いことも、すべて良いこととし、自分のために向上する機会であると思えば、消沈するはずがありません。特に衆生を救い済度することを心がけていたら「消沈」する時間がありますか? 「消沈」は存在することできますか? 「消沈」は身を置く場所がありますか?
消沈を解体しましょう。同修と共に励まし合いながら精進しましょう。