文/中国の大法弟子 容溶
【明慧日本2014年4月29日】私は法輪大法を修煉する前、「負けず嫌い」「傲慢」「メンツ」そして「人の意見を聞く耳を持たない」というタイプでした。修煉を始めても心性の修煉を重んぜず、時々、執着心が出てきます。数日前に、集団学法のとき、再び私の執着心がさらけ出されました。
ここで経緯をお話したいと思います。ある日、私は「しっかり法を読み、そして途切れたり読み間違えをしてはいけません。そうすれば、メンツを潰すことになります」と考えました。私が読む番になると、私は「完璧に読み終えた」と思い込みました。心の中で得意になって喜びを味わっていると、また私の番になりました。私は興奮の中で、法を読み始めました。二言も読んでいないところで、協調を担当するする同修に「法を読むときに、文字をはねないように、しっかり読んでください。繋がりが悪いですよ」と言われました。私は一瞬凍りつき、とても腹が立ちました。これは明らかにあらを探しているのではないでしょうか? 私は完璧に読んだのに、繋がりが悪いなんて、そんなわけがありません。私は誰々よりもずっといいですよ、どうして私のことだけ気に入らないのですか? 私は間違っていないと弁解しましたが、同修達に納得してもらえず、私は法を読むのをやめてしまいました。その後、自分のしたことがよくなかったと思っていましたが、私は他の人に欠点をよく探そうとする心があると思い、誤魔化そうとしました。
つまり、根本的な問題は解決していないので、これらの執着心が繰り返し出て来ます。私は悔しさを感じたり、自分の気持ちが治まらなかったりしていました。そこで、このことについて、他の同修に話しましたが、話の途中で、同修は「私も同感です」と言いました。想像もできない発言でした。慰めてくれると思っていたのに、せめて私のメンツを保つくらいの言い方をして欲しかったのですが、これは「災難の上に災難が重なる」のように、あのような辛さは、言うまでもなく、私を苦しめました。私は執着心を放下することができませんでした。
しばらくして、私は集団学法に参加することにしました。同修は再び皆の前で、「ある同修が法を読むとき、繋がりがよくない現象を注意すべきです」と強調しました。
私は「わざと私の自尊心を傷つけられたり、名誉と信用を失わせられたりして、同修の前で私の面目は失墜した」と思い込んでいました。私はこの難を乗り越えられないと思い、心の苦しさを感じていました。同修のいけないところばかり考えていましたが、自分のどこに問題があるのか、まったく考えていりませんでした。
あるとき、私が第五式の功法を煉っていたとき、慈悲なる師父は中々悟り難い私を見て、「独りよがり」という言葉を私の頭の中に浮かばせてくれませいた。私はいきなり分かりました。長年、この「独りよがり」のせいで、私は酷い目にあいました。「傲慢」「メンツを重んじる」「自分がいかに良いかと思い込む」などは、すべてこの「独りよがり」の仕業でした。私は人に言われたくない? 自慢の心ばかり? それは「自分は何でも正しいという思い込み」だったのです。どうしてずっとこの問題を認識していなかったのか? 違います、まだ認識していなかったことではなく、それは、根本的に認識したくなかったからなのです。毎回同修は慈悲に私を指摘するときに、私はあれこれ言い訳をし、同修は私に色眼鏡に掛けていると思い込んでいました。そして、これらの執着心を持ち続けていることにより、私の空間場で騒ぎを引き起こしたり、トラブルを起こしたりしていたのです。私は同修の言うことをまったく受け入れませんでした。だんだん同修は私に何も教えてくれなくなりました。今思い出すと、本当に危なかったと感じました。ここで、同修の助けに感謝します。さらに慈悲なる師父が救い済度してくださったことに感謝いたします。
私はこの出来事を通して、よく考えました。私は何でも完璧を追求し、何をやっても良い効果を求めています。自分は完璧にできたと思い込み、誰かが私の足りない部分を指摘し、あるいはアドバイスをすると、私のあらを探していると思い込んでいました。「いわゆる内に向けて探さなければならない状態」(訳者注:トラブルのこと)とは、私が日頃、他の人の欠点をよく探している報いです。なぜ毎回毎回この執着心を覆い隠していたのか、今やっと分かりました。私の根本的な執着心は「独りよがり」だったのです。
内に向けて探すことによって、私の「顕示心」「歓喜心」「恨み心」「争う心」「自分が実証する心」など、たくさんの人心は、この「独りよがり」が生み出したものだと認識し、私はこれらの執着心を徹底的に取り除かなければならないと思い、強大な正念を発しました。あれらの執着心に生存できる空間もあげないこと、同時に法に基づいて自分を正すことを重んじます。今、私は何の雑念もなく、純粋な気持ちで大法の中で修煉しています。
悟りが遅いかもしれませんが、幸い、師父の加護と同修の助けで、私はやっと目が覚めました。今私は常に自分に忠告しています。師父の要求を満たすよう、必ず自分を修めます。自分がちゃんと修煉すれば、必ず、三つのことはできるようになります。
今、私は朝の煉功に参加し、午前中と夜の集団学法も参加し、午後は街に出て、真相を伝えに行きます。毎日平均10人あまりに「三退」を進めています。以前の私とは全く違います。これから、師父にご迷惑を掛けないように、正々堂々と師を手伝い、法を正します。法を正す時期の基準に達した大法弟子になれるように、私はもっと精進します。