文/未署名
【明慧日本2014年5月31日】私の修煉でずっと放下していない一つの執着といえば、それは色欲心です。色欲の試練に遭った時、うまく乗り越える時もあって敗れる時もあって、時にはまるで修煉する前の自分に戻ったように色欲心を放任して、本当に悪かったです。以下に私が夢の中で見たことについて語りたいと思います。
まず、夢の中で自分は色欲心の試練を乗り越えられず、とても愚かで汚いことをしてしまいました。次の瞬間、私はある広い空間に来て、とても高くて荘厳で座禅を組んでいる自分が見えました。それは他空間に存在している、良く修めた自分だと私は分かっています。彼のそばに同じく座禅を組んでいる「私」はまたたくさんいて、ますます体が大きくて、ますます深遠な空間に座っています。
まもなく、彼の前に妖艶な女が現れました。彼は全然動じていませんが、女は色々な動作をして体を動かしています。彼は目の前の妨害を除去しようとしていますが、ちっとも動くことができません! 彼の体に一本の細い縄が現れて、体を縛っています。夢の中で傍観者である私は、彼の縄を解けるよう助けたいのですが、何もできませんでした。その時、女は陰険かつ得意げに笑っていて、縛られた彼はずっと足掻いていますが、どうすることもできませんでした。
それを見た私はとても辛かったのです。彼の体を縛っていた縄は、まさに私の観念と執着心であり、修煉上の漏れであり、分かっていてもぐずぐずして取り除いていない色欲心です。
師父は『精進要旨』「道法」で「魔難がやってくるとき、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこれを利用して尽きることのない妨害と破壊を行い、学習者は長期にわたり魔難に陥っています。本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんの神の一面を抑制し、つまり皆さんが修めてできあがったその部分を抑制し、法を正すのを阻んでいるのです。」とおっしゃいました。
夢で見た無数の「自分」は、良く修めてすでに大法に同化した自分の一部で、夢の中の傍観者としての自分は、ちょうどよく修煉できていない自分だと突然分かりました。しっかり学法して厳粛に修煉のことを扱ってこそ、はじめて良くない思想と行為に固執せず、良くない思想と行為を正念に変えることができると私は悟っています。