文/未署名
【明慧日本2014年7月27日】師父はどの大法弟子にも巨大な能力をくださったのです。ただ肉眼で見える表面的な空間には表れていないだけです。最後になればなるほど、私たちは邪悪のせいで考えを乱してはいけません。師父は法の中でこのような法理を教えてくださいました。私の個人的な理解では、邪悪は私たちと戦う時、私たちには及ばないので、私たちの思想を乱します。すると、私たちは全力で自分の使命と責任を果たせなくなります。
難関と出会うことは本当に良いことであり、さらけ出された執着を放下すると、知らないうちに自分がだんだん変わり、向上したと気づくかもしれません。この数日間のこと(以前にも同じような関に遭ったことがあります)は、人心で量り、損得ばかりを気にかけ、自分はいかに良いかと思うと、比類ない重さを感じました。その時、まだ自分の執着を見つけられませんでした。執着を正確に見つけられないことに焦ることはなく、努力さえすれば、師父は必ず教えてくださいます。「転んでも構いません。大丈夫です! 早く立ち直りなさい!」[1]昔の修煉者は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」[2]であり、まして今、法を正す時期の大法弟子はなおさらです。
もしずっと「私はだめです、まだ自分の執着を見つけていないのです」という考えに陥るなら、実は自分の潜在意識の中に、目前の難関を解決するためという考えがあり、それは大法弟子として正々堂々と修煉することではありません。これは自分の固い問題だと気づきました。はっきり言いますと、恐れる心です。そして、根本的な問題は自我を放下することができないということです。最も少ない代価を支払い、平穏無事に修めることをやり遂げたいと思っています。なので、完全に自分のことを師父に任せることができません。私はすべての難関をまとめると、やはり、「師を信じる法を信じる」ことが基点になると分かりました。
法を正すことはまだ終わっていません、なので、多く尊い生命は(生々世々のなかに、私たちはどのくらいの親戚がいるかを知りませんでした)、また恐ろしい結果に臨んでいます。私達は自分のためにいかなる口実を探してはいけません。少しずつ堅実に修めるしかありません。しっかり師父の教戒を覚えましょう。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[3]
最後のとき、師父に喜んで貰うため、私達は真を修め堅実に修めることを願います。億千万年の辛苦の末に待ち望んでいたことを、邪悪の狂ったような破壊に干渉されてはいけません。
注:
[1] 李洪志先生の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』
[2] 李洪志先生の経文:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
[3] 李洪志先生の経文:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」