文/中国の新しい大法弟子
【明慧日本2014年9月18日】(前の文へ)
修煉者は法を暗記し、発正念を行い、できるだけ多くの煉功をこなし、一つの考え、一つの念からマイナスの思考を排斥します。ある日、私はある店で餃子を食べていたとき、店内のお客さんは私しかいませんでした。その後、連続して3人のお客さんが来て、「蒸し餃子はあるか? 蒸し饅頭はあるか?」と聞きました。店主は3回も「蒸したものはありません」と答えました。どんなことも偶然はなく、この「蒸(zheng)」と「真(zhen)」の発音が似ているので、恐らく師父が私に真に修煉しているのかと聞いておられたのでしょう。私は真に修煉しているかを自問しました。真に修煉したいなら、なぜ厳粛に修煉しないのでしょうか? なぜ再三に自分を放任し、安逸を求めるのでしょうか? 大法弟子として、正邪の戦いの第一線にいる私はちょっと気を抜けばすぐに邪悪に隙に乗じられ、災難を招いてしまいます。なぜ私はこんなに油断するのでしょうか? 自分に対して責任を負えないだけでなく、衆生に対しても無責任です。
師父は『精進要旨二』の「法を正す時期の大法弟子」の中で次のように説かれました。「修煉と法を正すことは厳粛なことで、この時期を大切にできるかどうか、ということは、実は、自らに対して責任を負えるかどうかの事になります。この時期は長くありませんが、異なる次元の偉大なる覚者、佛、道、神、そして異なる次元の主の威徳を鍛え煉りあげることのできる時期であると同時に、自らをゆるめた修煉者を、すでにいる非常に高い次元から、あっという間に駄目にしてしまう時期でもあります」
痛烈に反省し、私は今までの修煉の過程における些細なことまで思い起こし、自分は修煉を厳粛なことだと思わなかったため、安逸心と惰性を放任し、自らを危ない境地に陥れました。そして、滑り落ちる過程が「自然なこと」だと思い、最後に能動的に魔に協力することにさえなってしまいました。二度寝という小さなことですが、「千里の堤は蟻の穴で壊れてしまう」ということになります。
安逸心は、様々な人心に隠れていることにも気づきました。
色欲の心の背後には安逸心があって、常人の性欲を満たした後の満足感はまさに安逸心であり、お腹が空けばしんどくなり、お腹を満たせば楽になると感じるのも安逸心でです。睡眠をたっぷり取るのも安逸心であり、暇ですることがなく、何かすることを見つけてすれば心が落ち着くのも安逸心です。人に褒められれば喜びを感じるのも安逸心であり、そこから虚栄心、顕示心、歓喜心、自分を実証する心と名利を求める心も生じます。そして、常人の幸せな生活、友情、親の情、愛情を求めるのも安逸心で、金銭を追い求め、生活水準を高めてはじめて良い生活ができると思うのも安逸心で、そこから利益の心も繁殖していきます。
温かくなれば安逸になり、涼しくすれば安逸になり、のどが渇き水を飲めば安逸になり、寒い日にお湯を使えば安逸になり、立っているとき壁に身を寄せれば安逸になり、出かけるときに車に乗れば安逸になり、汚れているとき洗えば安逸になり、学法の時に脚に肘をついて、まっすぐに座らない時でさえ安逸を求めています。こまごまとした事の全てにおいて安逸を求めています。それが人間の身体や生活の各方面に存在し、この世界全体が安逸を追求する「安楽な住まい」で、巨大な幻想です。安逸を追求すればするほど、深く陥り、抜け出すことができません。
常人の中で修煉している大法弟子は、この肉体を持つ限り、時々刻々に安逸心による妨害を受けます。それがあまりにも深く隠されているため察しがたく、人を「駄目に」するのはいとも簡単です。環境がゆったりすればするほど安逸になりやすく、最後になればなるほど試練も厳しいのです。時々刻々に安逸心及びそれによって発生した様々な人心に警戒しなければならず、そうでければ、いくら長く修煉しても、全てが台無しになってしまいます。
師父は『精進要旨二』の「法を正す時期の大法弟子」の中で説かれました。「もし、皆さんが未だに法を正す弟子とはどのようなものか、はっきり認識できないとすれば、今の魔難の中から抜け出せず、この世で安逸をむさぼる心に動かされ、邪な悟りに陥ってしまいます。それらの落ちてしまった人に対して、師父はずっと心を痛めています。多くはこの心に動かされて、ダメになった人なのです」
最後に、師父の経文を引用し、皆さんと励まし合い、共に精進していきたいと思います。
「法を勉強する時に寝てしまう、本を読む時に寝てしまう、煉功する時も寝てしまう、この最も初期的なものも乗り越えることができません。それは意志なのです! ご存知のように、修煉の中で人間を構成しているあらゆる要素もあなたが人間から脱皮することを阻んでいるだけではなく、人間のあらゆる環境を構成しているものまで、あなたが離れていかないように阻んでいます。どんなものをも突破しなければならず、どんな魔難をも乗り越えていかなければなりません。その最大の現れはそれらのものがあなたに苦痛を与えることです」(『長春補導員法会での説法』)
「実は、人類社会の理は宇宙の中で逆になっています。人間が難に遭い、苦しみを味わうのは業を返し、幸せな未来を得られるようにするためです。修煉者の場合、正しい理にしたがって修煉すべきです。苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です」(『最後になればなるほど、精進すべき』)
「あなたという生命がこの世に来たのもこのことのためであり、なぜ精進せずにいられるのでしょうか? なぜ緩んでしまったのでしょうか? 機縁よ、この万古の機縁! どんなに長い時間が経過しても、皆このことのために準備しており、苦を嘗め、業を滅し、苦しみの中で今日まで歩んだのに、精進しなくなったらもったいなくないでしょうか?! しかし、この一歩は非常に大事で、精進しなければ台無しになります。あなたの生命はこの一刻のために存在しているのではありませんか?」(『世界法輪大法デーの説法』)
「一つの生命が歴史の昔から今日まで歩んで来たのは何のためでしょうか? ほかでもなくこの一瞬のためです。歴史の大河の中で、この時間は一瞬なのです。消極にならないで、自らを奮い立たせてください。あなたは修煉者です。衆生はあなたに救われ済度されるのを待っています!」(『世界法輪大法デーの説法』)
(完)