文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年10月2日】私は幼い頃から、家庭が不幸だったため、裕福で幸せな生活に憧れるようになりました。生活の不幸への心の不安を忘れたいと、さまようように大量に読書したり、テレビドラマを見たりしていました。私は想像の中で映画やドラマや本の中の主人公になり、作者が作り上げたストーリーの世界に入り込んで、その物語の展開に従って心が浮き沈み、なかなか落ち着きませんでした。
これらのものが私の中で強大な思想業力を形成してしまいました。修煉を始めた当時、私は『轉法輪』を一回読み終えるのに数カ月もかかりましたし、師父の説法ビデオを見る時も、師父がおっしゃっていたような昏睡状態になって、私は最初から最後まで寝ていました。本来ならば、私は修煉を始めてから、これらの旧勢力の按配に正しく対処すべきでした。当然、実践の中でこれらの考えを絶えず排除し、取り除かなければならなかったのですが、私はずっと放任していました。常人の読み物や映画などは見なくなりましたが、たまに想像してしまうことがあります。三つのことを行う時に、これらの思想業力がいつも出てきて、その場で一念を発して取り除きましたが、発正念の一番最初の自分の空間場の邪悪をきれいに取り除く5分間を重視せず、いつもその5分が過ぎてしまい、直接手を立てて外部にある邪悪を取り除くことになりました。私は本当に発正念を重視していなかったのです。
最近、発正念を重視していなかった事で、思想業力が一気にやってきて、私が三つのことを行うことを厳重に妨害しました。これらは全部、旧勢力が按配した邪悪であると知り、私は頑張って、正念を発してこの事を認めず取り除くようにしました。しかし、自分にこれらの邪悪は自分ではない、思想業力だと警告しても、排除することも抑えることもできず、怖れて今まで修煉してきた自信が揺らいでしまいました。
この事で、やっと私は目を覚まし、自分に存在する、この問題に正しく対処しなければならないと悟りました。師父は、「しかし、なぜあなたが妨害されたのかと考えないのでしょうか? なぜ自分自身を見ないのでしょうか? なぜあなたを妨害することができるのでしょうか? 自分に何かの執着があり、放下できないことがあるのでしょうか? なぜ自分自身を見ないのでしょうか? 本当の原因が自分のところにあるから、邪悪に隙に乗じられたのです!」[1]と説かれました。
まず、私は自分の主意識を強め、決してこれらの思想業力を自分と認めず、主意識が私の体を主宰するようにしました。そして大量に学法をして、法に則って自分を正しました。
また、発正念にも力を入れて、時間があれば師父が教えてくださった最初の5分間の正念で、自分の空間場にある邪悪をきれいに取り除きました。この過程は、自分が100%師父と法を信じることができるか否かの試練でもあります。これらの思想業力と外来の妨害が、いくら私の頭の中でよくない念を反映させても、師父が大法弟子に要求されたとおりにすれば、必ずこれらの邪悪を徹底的に解体し、取り除くことができると私は信じました。
同時に、私は真剣に内に向かって探し、根本から自分自身に存在する問題を探し始めました。私は、修煉を始める前の不幸な子供時代が原因で、心の底から裕福で幸せな生活に憧れてしまいました。大法を修煉してから、自身の家庭環境がよくなり、多くの事もスムーズになったことで、大法を堅持し続けていけば、業力が消滅され、恩恵を得て、師父の保護を得られるという考えが、私の潜在意識の中にできました。しかも、この考えは情を重んじています。今まで私は自分にはこれらの執着がある事を知っていましたが、決心してこの問題を正面から捉え、自ら徹底的に観念を変えることなく、忙しい事を理由に、修煉はゆっくりしていっても、執着は自然に取り除けると思い、これらの執着を見過ごしていました。根本の執着を取り除いていないから、多くの心を取り除くことも遅くなり、師父の要求の通りに無条件に大法に同化することができませんでした。そのうえ、頭の中に各種の雑念と負の考えも多く、三つのことを素早くできず、自分を守ろうとする私心もとても大きいものでした。甚だしきに至っては、私が大法の事を行う際に、威徳を求める目的も潜んでいたのです。
師父は「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つけられないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です!」[2]と説かれました。
内に向けて探せば探すほど私は恥ずかしく冷や汗をかいて、自分が確実に修煉しなければならないと分かりました。旧勢力を否定するということは口先で言うだけでなく、実践の中で本当に師父の法の通りに自分に要求し、法で自分の一つの念、一つの考えでも正さなければならないと悟りました。以前見たある同修の交流文の中には、「私達は肉眼で見える表面の形式を重視しますが、往々にして見ることも触れることもできない心性を修めることを忘れがちです。しかし、修煉を向上させるポイントはまさにここにあります」とありました。
他人から見た私はまだ精進している方だと思うのですが、他人に見えるのは表面だけで、今回の事を通じて、見せかけの精進の下に潜んでいた根本的な問題を見つけることができ、修煉の厳粛性も真に認識するようになりました。
それは業力にまみれた人間から、慈悲で偉大な神になるまでに、どのくらい大法の仕事をすれば神に達することができるかということではなく、自分が真に心の底から固守している放下できないものを放下することにあり、完全に新宇宙の基準に符合しなければならないのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』