文/中国の大法の弟子
【明慧日本2014年10月6日】私は1997年に修煉を始めてから、すでに十数年が経ちました。長年の修煉により、私は命の深い所から落ち着きと冷静さが生まれ、もともと無欲で淡泊だった私の心がより平静になりました。しかし、最近になって、私の身にいくつかの事が起き、私の修煉に影響を与えました。私はそれを書き出し、同修達と交流し、同じ状況にある同修達にも警戒していただきたいと思いました。
「愛の花」を咲かせてはならない
色欲心についての交流文章はよく目に付きますが、しかし私はほとんど気にしませんでした。なぜなら、自分の色欲の心がすでに極めて薄く、夢の中で色欲の関門の試練があっても、いずれも平然として突破しました。しかし、数日前、私は突然、ご無沙汰していた友達のAさんから電話をもらいました。そのことは私に予想外の展開をもたらしました。Aさんは私が敬慕していた男性でした。しかし、私達は一緒にならず、彼は南方に行ってしまい、私達はすでに20年余り顔を合わせることなく、数年に1回電話をして、簡単な挨拶をする程度のお付き合いとなりました。
あの日、彼は私の微信(訳注:インスタントメッセンジャー。中国国外では「WeChat」と呼ばれている)を登録して、私達は深夜まで世間話をし、たくさんの忘れていた昔の事を思い出しました。翌日の朝、起きてから、私は体がだるく、疲れて仕方ありませんでした。娘のカーテンにほぐれた糸が長く垂れていたため、私はライターでそれを炙って、止めようとしました。しかし、炎が急に燃え、カーテンに大きな穴が空きました。私は直ちに警戒して、「これは師父が私を気付かせてくださっています。お喋りをして、炎上して、漏れが出来て、大変危険だ」と分かりました。
ここ数年、私は同修と一緒にいて、ほとんど常人の雑談をしていません。私達の話は、プロジェクトの事や衆生を救い済度する事、あるいは、人と人の摩擦の中で自分の問題点を探す事ばかりでした。同修との交流の中で、私は次第に心性を高め、また、このような交流がとても有益だと思いました。しかし、Aさんとの世間話は貴重な学法の時間を無駄にし、しかも、過去の事は私の心の平和を乱れさせました。その中には男女の情はないにしても、もしかしたら、それは旧勢力が仕掛けた罠であるかもしれず、少しずつ私を誘惑して、腐食させ、最後に私の長年の修煉を一朝にして無に帰させるつもりかも知れません。本当に危なかったです! 師父のご指摘に感謝して、私は師父の法像の前でひざまずき、師父に、「ご安心ください、私は必ずしっかり師父について、最後までやり遂げます」と約束いたしました。
数年前、私はある夢を見ました。その夢の中で、私は高く飛んでいて、山を飛び越しました。山頂にはたくさんの黄金の蓮の花が咲いていました。私はさらに高く、高くへと飛び上がり、突然一輪の花が目に付きました。その花は光と輝きに溢れ、深い紫、浅いピンク、薄い白と、まるで映画のスローモーションのように少しずつ咲き、美しく輝いていました。しかし、花が咲いているのを見た瞬間、私の体はゆっくり下降し始めました。私は突然、「この花は『愛情花』と言うもので、私達の心に愛と情がある限り、きっと落下してしまう」と悟りました。私の体は断崖絶壁から砂浜に滑り落ち、足元は果てしない海でした……。
微信、さようなら
私は2台の携帯電話を持っていますが、合わせて500元(訳注:約9000円)もしません。私は電話の受発信以外には、ショートメールすら送りません。スマートフォンは私にとってまったく無意味なものです。夫は私にアップルとサムスンのスマートフォンを二台くれましたが、私はいずれも人にあげました。人には笑われましたが、私はまったく気にしませんでした。その後、夫はまた私にサムスンの最新型のスマートフォンを一台くれました。今度、弟は、「お姉さん、お姉さんも使って見たら。スマートフォンはとても便利だよ、パソコンと同じで、微信を使えば、電話代も節約できます」と言って、微信をインストールしてくれて、使い方も教えてくれました。あの時、ちょうど私の家は内装工事をしていて、取引先との連絡も確かに便利でした。次第に微信は私の生活に入り込んで来ました。
今まで、私は毎日もっと多くの時間を資料拠点の仕事に費やして来ました。家は家政婦が家事をやってくれているし、私は子供の面倒を見るぐらいでした。夜、子供が寝てからの時間は、私の法を学ぶ時間でした。私はとても入心して法を学び、毎日とても遅くまで学び、どうして眠くて仕方がない時にやっと就寝しました。しかし、微信をやり始めてから、私は毎日何回も見るようになり、食事の時も、トイレの時も、寝る前も必ず見ていました。常人が言っている真偽もわからない事は、私と何の関係があるのでしょうか? 私はかつて、常人のことに関しては、耳の聞こえない人のように、話し掛けられてきても、何も聞こえないし、車に乗っても、流れている音楽はまったく耳に入りませんでした。しかし今、おしゃべりな家政婦さんが来て、ペラペラと止まらずにしゃべって、私の頭の中にがんがんと響いています。私はいったいどうしたのでしょうか? 私はきっとどこかおかしいと思いました。
考えて見れば、表面上では、すべて微信が招いた災いで、つまり、もともと私から遠く離れた常人の生活がまた少しずつ戻って来て、私の修煉に影響を与えてしまったかのように見えますが、結局のところ、すべては私の意志の弱さによるものでした。
私はまた随分昔に見た夢を思い出しました。「私は二人の同修とあるところに行く約束をしました。そこに到着すれば、私達一緒に円満成就が出来るのです。私は急いでそこに行って、一人の同修はすでにそこに座って私を待っていました。私は同修の傍に立ち、頭を上げて空を見たら、美しい光の波が流れていました。その光の波が巻き流れて、一つの蓮台が形成し、私の足の横に下りて来ました。私は自分がその蓮台に座りさえすれば、円満成就できると分かっていました。この時、私は足の下に底知れぬ深淵を見えました。それは黒くて底が見えない深淵でした。一方、蓮台は静かに浮かんで、そこで私が乗るのを待っていました。「底知れぬ深淵だ!」 ひとしきりの寒さが私の胸を襲ってきました。蓮台に跳び上がれば、少しでも不安定なら底知れぬ深淵に落ちてしまう可能性があります。跳ぶか、跳ばないか? 私は思い切って跳び上がりました! 私の重力で蓮台は突然落下して、私の心も一緒に落下しました。しかし、その瞬間、蓮台は空中に舞い上がりました。私は円満成就しました」。私は1人の修煉者として、円満の最後の一刻まで、生と死の試練があることを悟りました。
法を正すことはすでに最後になりました、私達の修煉はまだ終わっていません。しかし、どんなに高い次元まで修めていても、私達は依然として人間社会におり、人間のものが依然として私達を妨害しています。千里の堤も蟻の穴から崩れます。小さな悪であっても決してそれをやってはいけません。修煉は厳粛なものです。私達は必ず強い正念と意志を持って、師父に最後までついて行きましょう。
私の経験が同修達を少しでも啓発できれば幸いです。互いに励まし合いましょう。