文/未署名
【明慧日本2014年11月12日】数日前、同修の書いた文章を読みました。文章の中で「全体」について、例が挙げられていました。非常に面白くて役に立ちます。三蔵法師と弟子3人の天竺までの取経の旅を、一つのプロジェクトに例えましょう。三蔵法師はこのプロジェクトの協調人です。三蔵法師は孫悟空より能力もなく、不甲斐ないのです。しかも孫悟空に、よくつらい思いをさせました。そのおかげで、孫悟空は闘戦勝仏(とうせんしょうぶつ)になりました。
皆さん、考えてみてください。三蔵法師は本当に無能ですか? 三蔵法師は取経のことに対して、堅実な心はビクともしないのです。何があっても、プロジェクトの方向を変えず、動揺もしません。それで十分ではありませんか。もし孫悟空が三蔵法師のことを無能だと思い、プロジェクトの進み具合が予想より遅れており、良くできていないと思い込み、自分が他のメンバーを探し、天竺まで取経に行ったとしても、天上の神々は納得しますか? 認めますか? もし天上の神々が認めない場合、孫悟空は本当に如来佛のところに辿りについたとしても、如来佛から本当の経典を授かることが出来ますか? 彼は闘戦勝仏になれますか?
師父は『ロサンゼルス市法会での説法』の中で、大法弟子の質問に対して、法を説かれました。
「弟子:ある学習者は、協調人の段取りが悪く、目標をしっかり達成することができないと思って、自分が認識した法を実証する理に基づいて、別途独自で行なっています。彼のやり方は法を実証することに有益だと思い、彼を手伝って、一緒に努力しようと思っています。
師:このようなことは確かにあります。責任者は周到に考えておらず、または責任者は本当にこの面において、しっかり行なうことができませんでした。それに気づき、自ら進んでしっかり行なった学習者がおり、このようなことがたくさんありました。しかし、一緒に何かを行なうときに異議があり、一部の人を連れ出して、別のやり方でやろうと思う学習者がいます。皆さんに教えますが、責任者がしっかり事を行なうことができるかどうかに関わらず、協調して事がしっかり行なわれるようにすべきです。一部の人を連れ出して、別のやり方で行なってはいけません。このようにする人は間違っています。師父である私は認めません。」