【明慧日本2014年12月16日】私は一時、同修が経営する企業に勤めたことがあります。そこで私はある現象に気づきました。多くの同修はお茶を飲むのが好きで、甚だしきに至っては、「お茶がなければ水も飲まない」ほどでした。お客さんのためにお茶を淹れるのは客への歓迎を表しますが、誰も来ていないのに、わざわざお茶を淹れて、更に茶道具まで並べて、まるで「茶道」でも楽しむような感じでした。
お茶を飲むかどうかが重要ではなく、肝心なのは、お茶を飲むことが病みつきになることです。ある種のお茶、例えば「鉄観音」あるいは「大紅袍」(歴代の中国皇帝だけが飲む事のできる究極の銘茶)の味を美味しく感じ、そのため、そのお茶に対する執着にはまってしまいます。
ある同修はお茶を飲むと眠れなくなり、インターネットを開いて常人の映画を見たと言います。ある同修はお茶を飲むのは一種の文化だと言い、お茶を好んで飲むのは大したことではない言って、時間や精力を費やして茶道具やその種の品物を収集し、楽しんでいます。
私たちは世間から離れずに修煉しているので、自分の人心を放任してはなりません。師父は『洪吟』「道中」の中で明白に説かれました。「食しても味わざれ ば、口その執着を断つ」。天上にある家に戻りたいのであれば、世間に対するあらゆる執着はその妨げとなります。私たちは本当に厳粛且つ、真面目に修煉に対処しなければならないと思います。
自分自身を例に挙げると、先日私が故郷に戻ったとき、地元の同修は私を慰めるつもりで、お茶をプレゼントしてくれました。私は一人でいる時、お茶を淹れたことがなく、たいてい同僚が来るときに彼らのために淹れます。仕事で外出する際、時々外のレストランで食事をします。正直、美味しいものもありますが、しかし、いくら美味しくても、私にとっては大差ありません。私は食べ物に対する執着はありませんが、修煉者には修煉者の「享受」(受け入れて味わい楽しむの意)があります。
ここで、一つの「笑い話」を紹介します。私は小さな鎮に両親と住んでいました。そこにすばらしい料理の腕を持つあるおばさんがいました。私の母はあまり料理がうまくありません。そのおばさんはある日、私の母にこう言いました。「あなたも息子にもうちょっとおいしいものを作ってあげればいいのに…」。つまり、母親が私の食事を作ることにあまり誠意を込めていないというのです。帰宅後、母は私にこう言いました。「私たちは人間の全てに対して執着しなくなって、はじめて大法弟子のすべきことをよく実行できます。食べ物に執着している人は、やはり『人間』に対する執着心を放下していないのです。それなら、その人はやるべきことを良く実行できません」
今、考えれば、母の言葉は普遍的ではありませんが、ある意味、道理にかなう部分もあります。
神がお茶や食べ物、飲み物を重く見ることは絶対にありえません。それなら、神に向かって修行する生命はこの方面において努力すべきではありませんか?! もちろん、それは人間に対する執着を放下した後に自然に達する状態であって、功の中から自然に反映され、表面だけで、強制的にできる事ではありません。
「茶道」に言及したついでに、私は多くの同修が一部のいわゆる伝統文化に熱心であることに思いつきました。私が不当に収監されていた時、ある同修は私に儒家思想について大いに語り、ある同修は伝統文化の中に深入りし、頭にはそれしかありませんでした。それは本末転倒だと思います。大法を実証するために私たちは伝統文化を借用しますが、大法をもって伝統文化の正しさを実証するのではありません。
個人的な体験ですが、不足の部分があれば慈悲なるご指摘をお願いします。