文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年12月25日】我が家のしつけは非常に厳しいものでした。私は成長するにつれて、たくさんの本を読み、人間としての道理が分かってきたので、高尚な道徳感を持つようにずっと心がけていました。もちろん自分にも厳しく律してきました。しかし、自分の体験したことは順調なものではなく、人から非難されるようなこともやってしまいました。そのために劣等感が生じました。さらに、私には忘れられないことがありました。それは、修煉してから、常人と不正な関係を持ったことです。自分のために言い訳をしたくないのですが、どんな理由にもかかわらず、あのようなことをしてはいけません。修煉に戻ってから、私はさらに劣等感を覚えました。私は過去のことは忘れてしまったと思い込んでいましたが、実はこの劣等感が心の中に深く隠れていました。昨日、私は内に向けて「名利を求める心」を探した時、この名利心は、劣等感から生み出たものと分かりました。
劣等感は、一種の虚栄心です。自分はずっと「過去」という重荷を背負っており、人と会い接触することも、人が自分の状況を尋ねることも、人に言われて傷つくことも怖がっています。とにかく、ひたすら怖がっているのです。この重荷は、いつになったら下ろせるのでしょうか? 学法を通して、私たちは生々世々に、数えきれないほどの過ちがあることを知りました。ずっと悔恨の念を持ったままであれば、良くなる機会は訪れません。人生のすべてが劇のようで、あなたには演じるべき役があります。私たちの体の中に、生々世々の要素もあり、良いもの、悪いものがそれぞれあります。何を選ぶかはあなたの主意識次第です。悪いものを排除すれば、大法に符合することになります。すると、自分の過去を否定することになるのでしょうか? 過去のことは、今のことと等しいのですか? 修煉は、自分の良くないところを否定する過程です。過去のことを抱いまま放棄したくないのなら、これも執着ではありませんか?
人が自分の不足を語るときに、私たちは静かに聞くべきです。それは過去の自分なので、今の自分とは無関係です。私たちは言い訳をする必要はありません。人が自分の良くない過去が分かった時にも、人が見下してしまうことを許してあげてください。それは過去の真実です、人はただあなたが良くなっていることを、まだ分かっていないだけです。私たちは、自分の行いで証明すればいいのです。自分さえ許すことができない人は、人を許すことができますか? このような心理状態では、私たちは人の不足に非常に執着し、慈悲を持って対処することができません。古い見方で自分の過去を見る人は苦しく、古い見方で人の過去を見る人はとげとげしい人だと思います。
過去の行いは、過去の私が行いました。今の私は、過去のことを放下するべきです。今日から、新しい私になり、大法に同化する生命になります。同修の皆さん、私のこと加持してください。