文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年1月12日】同修の文章「真相はしっかり伝えるべき」を読んで、とても同感しました。最近、法輪功迫害の実態についての真相を伝える時、真相を理解できる人が突然多くなったのに気が付きました。最近は明らかに、「天安門焼身自殺」の真相を聞いた時も、人々はあまり驚かないようになりました。たまにある人は私に「そう、そう、その通り、私はもう聞いたよ」と言い、ある人は更に私に、「中国共産党のネット封鎖を突破することができる」と言い、このような真相をすでに知っているようです。
こうした喜びの中で私は一つの問題を発見しました。これらの真相を理解した世の人たちと続けて話した後、私は彼らの中で多くの人が思想と言動の面で師父に対して不敬な事をしていることを発見しました。更には大法と師父を別にして、「法輪功はもともとは良かったけど、その後は何々だ」などと言ったり、ある人は焼身自殺の捏造を知っているのに、4.25の真相を知らなかったり、「法輪功は良いが、そんなにたくさんの人が政府と対立するべきではない」などと言う人がいます。この人たちは少しの真相を理解していますが、救われてはいません! 私たちが真相を彼らにしっかり伝えていないので、彼らは本当に変わっていないのです。
こういう問題から、私は内に向けて自分を探し、いくつかの考えを言い出して同修と相談しました。
師父に対して不敬と言われると誰もが認めようとしません。誰が師父に対して不敬な態度をとろうとするでしょうか。しかし私が思うには、師父を敬っているかどうかも修煉の次元に差があり、違いがあると思います。大法弟子のみんなが認める一言があります。それはどんなに師父を敬っていてもそれは全然足りないという事です。しかも現実の生活の中で、私たちの師父に対する尊敬は会社の社長、上司にも及ばない時があります。私たちの思想と言動は本当に師父を尊敬しているでしょうか? 私たちが大法を実証する事をしている時、師父を敬う事を重要なこととしているでしょうか? 学法をする時、大法の書籍や法像を置いたり並べ替えたりする時、私たちは師父を敬っているでしょうか?
何年か前、邪に悟った人がこう言いました。大法と師父をわけて、「大法は認めるが、師父は認めない」などと言い、師父も説法の中で、この問題に触れられました。今の私たちにはもうこの問題は存在しないのでしょうか? 正しくない場は自然に世の人に影響し、彼らを通して、私たちの状態が表れます。
私を含む一部の同修たちは功徳を求めて、人を救うという事を簡単化してしまいました。いつも、誰かに真相を伝えたり、電話で真相を伝えたり、世の人に「法輪大法は素晴らしい」と書いてある旗を見せたから偉いと思っています。しかし、実際は違います。一人の世人が救われることは容易な事ではなく、いくつもの関を乗り越える必要があります。それに、旧勢力は何層もの関に魔難を置いています。
まず、その人が真相を聞き、あるいは見る事ができるかどうかです。真相を伝える事は全部大法弟子がやっていて、大法弟子もみな修煉の中にいて、自身にも業力と不足があります。もともと全ての縁のある人に真相に触れさせる事が出来るかどうかも一つの大きな関なのです。
では、世の人がこの関を突破して真相に触れる事ができて、この大法弟子自身の要素(例えば執着や不足など)を含んだ真相の内容が全面的かどうか、世の人に合うかどうか、真相資料の背後の要素はどうか、これが第二の関になります。同修の交流文章にもありましたが、ある同修たちが作った真相資料は世の人に好んで読まれるのに対して、ある同修が作った真相資料は世の人にそのままゴミ箱に捨てられてしまいました。不完全で全面的ではない真相に対して、おそらく世の人は先に述べたような現象を起こすのでしょう。「天安門焼身自殺」の真相を知っているのに、4.25の真相を知らない、大法が素晴らしい事を知っているのに、李洪志師父が大法の創始者であり、この上なく敬うべきだと知らないのです。もちろん、私たちが真相を伝える時に重点的に行う事はできますが、世の人の具体的な状況に対して調整を進める事も重視すべきです。
私の近くにいる世人の言葉からも、今の中国社会では偽ものが非常に多いから、あなたが「天安門焼身自殺」の真相を話すと、驚いて受け止める能力があります。しかし、彼らの中の大部分はいわゆる「党に反対する」、「政府に反対する」、「国家に反対する」ことを受けとめる事は難しいのです。それは何年もの党文化と政治運動に恐怖を覚えているからです。そして私たちが真相を伝える中、特に時間が比較的限りある状況の場合でも「邪党」、「江氏集団」、「政府」、「国家」及び中華民族の関係などの問題をはっきり解説することは容易ではなく、世の人が真相を理解する死角を形成してしまいました。
大法と師父との関係の面でも同じです。あなたが一種の信仰の事を良いと言うと、彼らは骨身の中からも受け止める事ができます。なんといっても中国には何千年もの神伝文化があります。しかし、あなたが師父の事まで話すと、彼らの眼には普通の人にしか映らない人がどれほど偉大かに対して、抵抗を始めます。中国人は嫉妬心が強く、誰かがすばらしいという言葉は耳に入りにくいのです。しかし、こういう問題を私たちはやはり解決すべきです。私は大法の知恵の中で私たちはこれらの問題を解決できると信じています。そして世の人のためにこの関を突破します。
第三の関は、世の人が真相を理解した後、正念を出せるかも一つの問題です。こういう人がいるのではありませんか。「私は法輪功が良い事を知っています。江沢民は悪い。しかし、私が江沢民であったらやはり同じようにする」と言っている人がいます。更に病院で働いている人に邪党の法輪功修煉者に対する臓器狩りの罪を話すと、彼は聞いた後、「それがどうしたのですか、ふつうの事ですよ」と言いました。こういう人を、私たちが救ってあげたいのなら、先にその人の人間性を回復させなければなりません。もし一人の生命が真相を聞いた後、大法を認め、大法弟子に同情して、邪党が邪悪だとはっきり分別する事ができるなら、正念があると言えます。
第四の関は、正念があるなら、その後にはまた、正しい行いをする事が必要です。それは自ら「脱党」を希望する事です。更に良い人は、大法のためにいろいろな事に協力できるのです。この関を通り抜けられない人があります。ある人は全てが分かったのに、なぜか脱党をしたがりません。こういう人は大体自分の目の前にある利益を手放せない人です。私は前に、一人の老人に脱党を勧めた事があります。「天が中国共産党を滅ぼすので、脱党して平安を守りましょう」と教えたのに、老人は脱党しようとせず、更に、「大丈夫だよ、人はいつかどうせ死ぬんだから」と言いました。
第五の関は、第四の関を通り抜けた人がまた同じ事を繰り返す可能性がある事です。修煉界では「中士、道を聞けば、存るが若く、亡きが若し」という言葉があります。それは真相をはっきり分かっている世の人にも存在する問題です。邪党の限りない洗脳と利益の下で、ある者はまたもや「悪人を助けて悪事をする」ような事をはじめます。しかも、これだけではなく、私たちが頑張って脱党を勧めていると同時に、中共邪党も続々と新しい党員、団員、小先隊員をつくり、彼らを地獄の門に送り込んでいます。そのため、人を救う事は本当に急がなければならない事で、私たちに少しの緩みがあってもいけないのです。
人を救うという事は容易な事ではなく、真相を伝えるのは、その中の一部に過ぎません。私たちは真相を伝え昇華と前進を続けるなかで、世の人に真相を聞く際に死角を残さないようにしなければなりません。私たちは彼らのために党文化の縛りを解いてあげる必要があり、彼らの失った道徳観、生死観、善悪観を取り戻し、更には彼らのもともとあるべき人性を呼び戻し、彼らが正念を発しやすくなるように助ける事も必要です。
本文で述べたいろいろな問題から、次から真相を伝える時に、以下の事に気を付けてほしいです。
一、師父の名前をよく話に持ち出し、大法が影響している事を師父と結び付けるように気をかけてほしいのです。私は同修たちのやり方にとても賛同しています。何か良い事をしたり、あるいは世の人の感動をよんだ事に、いつも「これは私たちの李洪志師父がこうするようにと私たちに言われたのです」と付け加えて、同時に師父が世界各地でたくさんの賞賛を得ていること、それとともに、師父の『轉法輪』などの著作が40あまりの国の言語に翻訳されている事なども世の人に知らせるべきだと思います。
二、「江氏邪悪集団」と、通常使われている政府の概念と国家の概念を区分して、世の人にもっとよくそのものの邪悪さとの違いを分からせて下さい。
三、世の人の党文化の縛りを解き、相手の気持ちになって彼らの良心を呼び起こし、彼らのために正念を発しやすい環境をつくるよう心がけて下さい。
以上は、個人の悟ったものなので、誤りがあれば、同修の皆さんのご指摘をお待ちしています。