文/イギリスの大法弟子 子淳
【明慧日本2015年2月13日】去年、娘がロンドンで住宅を購入しました。内装は済んだのですが、もっと便利に使おうと、私は台所に2つのラック、寝室に三段ラックを付けることを考え出しました。また、数カ所の扉の表面が剥がれており、粘着剤で貼りなおす必要もあります。娘は中国人の大工さんに工事を頼みました。
その大工さんは1日の工事料金が150ポンド(約27000円)かかり、またこれぐらいの仕事なら2人必要で、つまり1日に300ポンドが必要だと言いました。また私は入り口の床を木製フローリングに改造することも頼んでいました。大工さんは、その工事には2人で1日かかり300ポンドの工事料金になると言い、合計600ポンドを見積もりました。かつて私は中国にいた時にも家を内装したこともあります。その時と比べても、イギリスは中国と違い内装の材料はほとんど半製品ないし完成品のため、今回の工事は一人で2日間やれば充分足りると思っていました。結果は私の予想を証明したようで・・なんと大工さんが連れてきたアシスタントは自分の息子でした! その息子は一日中ほとんど父親の仕事を見習うだけです。大工さんが息子に教える間に、自分一人で作業したらとっくに仕事が終わるはずです。
私はとても不愉快でした。これはつまり私を騙すという事ではありませんか? まだ高校も卒業していない学生に私は毎日150ポンドも払わなければならないのでしょうか? これは熟練大工の工賃ですよ! 心のバランスが崩れた時から、私はこれは利益を求める心だと意識しました。法輪大法を修煉してから、私は利益心の関に何度も遭いました。師父は『轉法輪』でおっしゃっています。「それとはっきり分かっていながら利益の面において損を蒙り、また他人に利益を犯された時、あなたは他人のように争ったり闘ったりはしません」[1]。私はこのとおりに実行できず、いつも公平を求めるという常人レベルの道理に妨げられ、数回の関は一応越えてきたのですが、修煉者らしく堂々と乗り越えてきたとは言えません。だから今回こそ常人の理を放下して、修煉者の基準で自分を要求し、損得を計算したり言い争ったりせず、また彼らに優しく接しなければならない、と私は自分に言い聞かせました。
しかし、この利益心は生き物のようにずっと私に付き纏い「今回のことでは貴方は大きい損をしたね。少なくとも200ポンドは損をしたよ」と言ってくるようです。私はその息子のやった仕事を見て「これでは1日彼に50ポンドを払えば充分足りるではないか、そうすると200ポンドを多めに払ったことになってしまった」と思ったからです。もし常人のやり方で対処すれば私の損はきっと小さくなるのですが、私は大法に従いたいと思い、利益心に「早く消えてください。私は修煉者なのです。これ以上貴方に左右されるようなことをしたくない」と言いました。
昼になると、私は大工さん親子に簡単かつ美味しい昼食を作って、二人は「三退」もしました。しかし娘が彼らに工賃を払う時、私の心の中はどうしても平静になれないため、やはりその場面を見ないように逃げました。「大工さん、高校生の息子に、1日300ポンドという熟練大工に支払うような工賃を私に払わせるのは、子供の成長に本当に良いことだと思いますか」とその父親に聞きたい気持ちを一生懸命抑えていました。もし口を開くと、この利益心がまた蘇ると私は分かっているからです。
私にとって、その関を乗り越える過程はとても苦しかったのかもしれません。大工さん親子を見送ってから、娘は私に「お母さん、どうしたの?」と聞きました。私は「なんでもない、お母さんは今から学法をする」と答えました。
私は『轉法輪』を開いて、昨日読んだところの続きからスタートしました。「修煉は、錬磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできません」[1]を読む時に、頭の中に詰まったものが突然通じた感じがしました。私はその部分をもう一度読み、「師父、今回こそ私は必ずこの利益心を切り捨てて、師父の良き弟子になるように頑張ります」と言いました。
翌日、私が第一功法をしている時に奇跡が起きました。半年間ずっと痛かった左側の乳房が突然痛くなくなったのです。左側の乳房は一年前から時々ぽたぽたと汁が染み出ていて、半年前から乳房の内部に赤ちゃんの握りこぶしほど大きい塊ができた感じがしていました。そして煉功する時に、特に第一功法で両手を伸ばす時に乳房が痛くなっていました。時には「もしかして、何か悪い病気に罹っているのではないか」と思いましたが、すぐにこの不正な一念を否定し、ほとんど私は乳房の不具合の事は忘れていました。今、まぎれもなくその塊がなくなったと実感しています!
私は驚き、心は師父に対する感謝でいっぱいになりました。私がたった一つの執着心を放下しただけで、師父は私のためにこれほど大きい難を取り除いてくださいました。煉功しながら私は涙を流しました。師父が『轉法輪』におっしゃった「われわれが失うものは、実際に悪いものにほかなりません。それは何でしょうか? それはほかならぬ業力なのです。この業力は人間のさまざまな執着心と一体関係にあります」、「良くないものを取り除こうと思えば、まずあなたのこの心を是正しなければならないのです」[1]を思い出して、私は改めて修煉の厳粛さと神聖さを体感しました。
しかし、3日目になって大工さん親子のことを思い出すと、私はまた落ち込みました。今度はあの親子がきっと私の事を馬鹿だ、家の内装に関して何も分かっていないと思って笑っているではないか、と考えたのです。私は考えるたびに悔しくてたまりません。家の内装に関して、私は普通の人より分かっていると思います。10数年前に中国で私が自らデザインして内装してもらった家は、今でもモデルハウスのように友人たちに参考にされたりしているのです。友人は「もしも貴方が内装のアイデアの本を書いたら、きっと売れるだろうね」と冗談で言ったこともあります。そのため、その大工さんに「全くの素人」と見下されたのではないかと思った時の辛さは、200ポンドを損したことよりも骨身に染みるほど苦痛でした。その関は一体私のどのような執着心を除去させるためか分かりませんが、馬鹿にされてもかまわない、その大工さんも3人の子供を養わなければならない、私はこうして大工さんに借りを返しているかもしれないと思うと、だんだんと釈然してきました。
今回のことを通じて、私は幸せな生活を求めたいという執着心のほか、生活の質を高めたい、生活環境を完璧に整えたい、買い物をする時には、損をしたくないために価格に見合う品物を選びたいなどの執着心があることに気付きました。実はそれらも利益心の表れで、それは常人の生活の心地良さを求めて良い品物を占有したい、損をしたくない執着心です。 それらの人心を発見して放下した後、自分は別人になったように感じました。大工の不注意で化粧台の表面の塗装が少し剥がれましたが、そこを見ても心に不満は生じず、写真や何かの図案を上にかぶせれば解決できると思うようになりました。大工さんの息子が打った、歪んでいる釘を見ても、大工さんが選んだ木に傷があるために日に当たって多少裂けた床板を見ても、私は気にかけなくなって、「大工さんのせいでなくて、もともと床はあんな感じだったと思おう」と自分に言い聞かせました。以前の私ならば、絶対にあり得ないことです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』