文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年6月16日】「情」とは何でしょうか。師父は『オーストラリア法会での説法』の中で「情は三界内の要素の一つです」とおっしゃいました。師父の説法を通じて、三界内のすべての生命が「情」に浸っていて、抜け出せずにいます。そして、「情」というものは三界内のすべての生命を思うがまま操って、すべてを知り尽くしているのです。人間には「情」が欠かせないし、「情」を持つことは人として当たり前のことでもあるのです。この部分については深く話しませんが、修煉の中で、大法弟子の角度から見る「情」について分析していきたいと思います。
個人の理解としては、「情」は神ではなく、善悪を持つ生命であると思っています。人類社会が最も道徳の高い時代では、「情」というものは人類社会の道徳を悪い方向に下がらないよう維持することができます。例えば、「仁義」「廉恥」「忠孝」など、「情」は様々なきれいで、美しい形や、物に変化することができ、人々の心を虜にし、見惚れさせます。しかし、「情」の悪い面が動き出したとき、それはとても汚なく穢れて、邪悪な生命に変化し、凶悪な面相、詐欺、暗さ、卑しさなど、人類社会の道徳が比較的に低いとき、特に、法の末期の乱世の時代では、「情」の悪い面が目立ち、今日のように人類社会の道徳の降下を加速させます。
なぜ「情」を神と呼ばないでしょうか。個人の悟りとしては、情とかかわりを持っているものの多くは悪い生命であり、それは人間の様々な執着心であると思います。例えば、色欲、嫉妬心、闘争心、顕示心、歓喜心、怨念、虚栄心、名利を重んじる心など、修煉者がなくしなければならない執着ばかりです。師父は『轉法輪法解―広州での説法 質疑応答』の中で「情は執着心を生む根本です」と説かれました。「情」は思うままに修煉者のまだなくしていない執着心を操り、それを重くすることができます。内と外から修煉者を挟み、順番に大法弟子の修煉を邪魔し、同修をも悪循環に巻き込んで、抜け出せなくさせるのです。そして、知らないうちに旧勢力の按排に乗じられたことに本人は気づかずに、そのまま、ずるずると下へと引きずられていってしまうのです。
個人の悟りとしては、「情」が人の執着心を操っているときは、なにか一つの執着心ではなく、多くの執着心が絡まりあい、様々な形で現れてくると思います。まるでたくさんの毒蛇の絡まりのように、ともて気持ち悪く、凶悪で、そして、大きな魅力を持って人を惑わし、防ぐに防ぎきれません。もちろん、自分をしっかり修めている人や多く法を勉強している同修への妨げは小さくなると思います。
「情」は大法弟子に執着心があることを理由に悪いことをします。そして、大法弟子は常人社会の中で修煉しており、いままでの修煉形式をとっていないため、円満成就するまで必ず人心が残っていますし、常人社会に汚染されます。しかし、師父の教えの通りに法を勉強し、法の中で自分を鍛え、常に正念を持っていれば、様々な執着心を少しずつなくしていけるはずです。百パーセント正念に満ちていないときには、程度の違う妨害が入り、「情」に陥っていきます。そして、師父の法を実証することの手伝いをする大切な時間を無駄にし、宇宙にいる多くの生命が助かるチャンスを失わせてしまうのです。「情」は表では、大法弟子の精進の手助けを理由にしていますが、実際は、法を実証することを妨害していることを覆い隠しているのです。つまり、自分たちの利益を守るために旧勢力と手を組んで法を実証ことを妨害しているのです。
つまり、「情」は最も頼りにならないもので、常に変化し、原則のない生命なのです。人間にも真実の情はあります。友情や愛情、永遠の誓いなどがあります、しかし、人間がどんなにいいと思っている感情でも、それは信じられるものではなく、頼りになりません。人を惑わす虚像にすぎないのです。重いものは「情」に支配され、一生抜け出せず、目覚めることを拒み、自ら「情」の奴隷と犠牲者に成り下がろうとする者もいます。命の終焉の間際に「情」の虚像に心を惑わされ、「情の深い者」になりたがっているのです。この角度から「情」を見れば、それはとても自己中心的で、醜くて、毒蛇よりも何百倍も邪悪なのです。
個人の悟りとしては、世間の情を重んじ、感情を重んじることは修煉者の弱点だと思います。こういったものを持つ者が最も旧勢力の変化した虚像に惑わされやすく、利用されやすくなるのです。まさに、師父が『精進要旨―修める者の忌』のなかで説かれた「親族の情に執着するならば、必ずそのために疲れ、まとわり付かれ、魔がさし、情の糸をつかんで一生をかき乱されるのですが、年を取って、悔いてももう遅いのです」のようになってしまうのです。
今まで修煉してきて、自分も「情」に深く害されました。以上の悟りも今になってやっとわかったことですので、今迄の体験や心得をここに書きました。これからは「情」に騙されないよう、同修と共に励みたいと思っています。私たちは様々な天国からきて、何度も転生し、様々な階層の人物を演じ、様々な人生を経験してきました。師父の導きの下で人類の文化を作り出し、そして、最期の時、今世に転生し、師父の手助けをするために人間になったのです。長い間の転生を繰り返し、その歴史の中で、旧勢力による按排が多く混じり合ってしまったため、多くの役は自分たちの意思によって決まったものではないのかもしれませんし、歴史の中で、多くの恩怨や怨根を作り、多くの借金を作ったかもしれません。しかし、もし、師父の救済や大法の修煉がなければ、多くの怨念から抜け出すことも解放されることもあり得なかったのです。世間の虚像に執着してはいけませんし、表面だけの幻像に決して惑わされてはいけません。同修たちにも気を付けてほしいです。
「情」の束縛から解放されるには師父の教えに従い、心を静めて法を勉強し、しっかり「三つの事」を行うほかありません。常に自分の行動を法と照らし合わせ、大法で物事の是非を図り、常に師父が教えてくださった「自分自身の内を探すこと」で、執着心をなくさなければなりません。明細な意識を保ち、自分の主意識をはっきりさせて、自分の行動を主意識に決めさせ、外来のものに乗っ取られないようにしなければなりません。また、歴史で按排されたことを否定すれば、「情」に囚われることなく、旧勢力の按排を破ることができ、師父が決められた道を歩無ことができます。自分たちが誓った大願を果たし、師父の法を実証することを助け、師父に救われた恩に背かずにいられるのです。ここに今迄の体験を書き留め、同修と共に励みたいと思っています。また、本文は現段階での個人の体験であり、不適当なところがあれば、指摘をお願いします。
合掌。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解―広州での説法 疑問応答』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨―修める者の忌』