文/湖南省の大法弟子
【明慧日本2015年6月23日】2001年の年末に、私は留置場から解放されました。職場に戻った時、「保証書(法輪功の修煉を放棄するという誓約)を書けば、元の職場に戻って仕事をすることができる。そうでなければ無理だ」と言われました。私は雇用者の理不尽な要求を断りました。そして、その職場から離れ、あちこちでアルバイト生活を始めました。何カ月かのアルバイト生活で、私は経済面での迫害をたっぷり味わいました。仕事をしてもお金が支払われない・・・、仕事をかえても、給料日に社長が逃亡・・・。
この一連のことを私は改めて考えなければなりません。私は旧勢力の按排した道、それとも師父が按排してくださった道を歩んでいたのでしょうか? 私はしばらく法を学び、反省を通して、ついにはっきり認識しました。私は旧勢力の按排した道を歩んでいたのです。旧勢力は私が安定した仕事と収入を失うように按排したのです。すると、生活のためにあちこち奔走し、当然のことながら、法をしっかり学ぶことも、煉功することも、真相を伝え衆生を救うこともできなくなりました。私はその時、すぐに旧勢力の按排を否定し、師父に按排された道を歩み始めました。すると奇跡が起こりました。元の職場から自宅に電話があり、私にまた職場に戻るよう要請されたのです。保証書も書かなくていいということでした。
2008年3月18日、私は職場で国保大隊(法輪功迫害の実行機関)と派出所の警官に捕まりました。私は自白を強要されて拷問を加えられ、左腕が動かなくなりました。留置場で、私はもう片方の手で他の監視室の受刑者にできる限りの事をして、関係を深め、真相を伝えやすくしました。
留置場にいた4カ月ほどの間、私は監視室の受刑者に三退を勧めました。彼らに真相を理解させ、良い未来を選択するようにはかりました。その4カ月ほどの間に、監視室の人は全員脱党しました。私は修煉者としての基準で自分を律することができ、大法を実証したので、留置場の所長まで親指を立てて「あっぱれ!」と褒めてくれました。これは師父が常人の口を借りて、私を励ましてくださったのでしょう。
その後、私は不当に1年間の労働教養処分となりました。私は労教の「1年」というのは、ただの数字に過ぎないことを知っていましたが、私に執着があり、修煉に漏れと隙があったからこそ、この迫害に遭ったのだと分かっていました。内に向けて探すと、三つの人心がありました。同僚との間の情、教養所から出たいという心、そして、恨みの心です。
執着を探し出すのは簡単ですが、取り除くことはとても難しいことです。一層一層また一層、まるで巨大な玉ねぎが永遠に剥ききれないかのようでした。午前に発正念をして、正午ごろにはまたその考えがあり、また正午ごろに発正念して取り除き、午後にまた出てきます・・・。その後、同僚との間の情は取り除くことができましたが、恨みの心は全然取り除くことができませんでした。さらには、頭の中に良くない考えも出てきました。それは、外へ出て行って、私の手を不自由にさせた人にどう対処するかということでした。
師父は私が悟らないのを見て、私に気付かせ、突然『三国演義』の中の関羽を思い出させました。関羽が殺された後、魂魄が空中を漂い、「我の頭を返せー!」と叫びました。するとある寺院の住職が「それではあなたが殺した人たちの頭は一体誰が返すのですか?」と言うと、関羽は静かに去って行きました。その時、私は恨みの心は絶対に取り除かなければならないと分かりました。そして、その心はすぐに取り除くことができました。
ある日、監視室の同修が私に、「誰かが君に面会に来たことがある?」と聞きました。私は「家族の他に同修が面会に来たことはあるよ」と答えました。この話が口から出るや否や、私は以前、同修たちが留置場、教養所の近くで発正念をしていたことを思い出しました。私は「教養所にいる限り、発正念をする」と固く決意しました。こうして、教養所から出たいと思う心もなくなりました。その後何日かして、家族と職場の人が私を迎えに来て、家に帰りました。私はここで本当に内に向けて探すことの奥深さを実感しました。
家に帰った後も、私の左手はだらりとしていて、動かすことはできませんでした。私は毎日法を学び、煉功し、自分をいまだに障害者とみなしたことは一度もありません。私にいろんな商売をあれこれするように勧めてくれる同修もいて、「片手だけでもできるよ」と言いました。私は「できない」と断りました。すると「仕事をしないで、どうやって生活を維持するの?」と聞かれ、私は「私の手は治ります」と答えました。
この過程で、取り除かなければならない人心がやはりありました。格好悪いことを怖がり、身体が不自由であることを知られるのを怖れていました。ある日、私は同修とバスに乗りました。空席が一つあり、同修は私に座るように言いましたが、私は「大丈夫、他の人に譲るよ」と言いました。同修は「あなたは身体に障害があるんだから、あなたが座りなさいよ」と言いました。その時、私は怒りでいっぱいでした。しかし、私はすぐに自分が面子を気にしていることに気づきました。
師父の慈悲深いご加護の下、現在私の手はもう元通りになりました。
修煉の中で、私がとても重要だと思っていることは、旧勢力の按排か、師父の按排かをはっきり見極めることです。心を使って感じ取り、師父の按排だと悟ると、迷うことも、孤独だとか、無援などと感じることもありません。最も主要な前提は、師父と大法を固く信じることです。そうすれば、修煉の道でしっかりと一歩一歩、前進することができるのです。
もし不十分なところがあれば、同修の皆さんのご指摘をお願いします。合掌。