文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年7月5日】今日は同修Aさんの家に行きました。Aさんは正見ネットに掲載された、功能を持つ大法修煉者が入定の時に見た光景を書いた文章を私に推薦してくれました。その作者が見たことが本当かどうかは別として、修煉者はその文章を読んでから心をどのように持つべきかを、ここで皆さんと交流したいと思います。
その文章は、現地の同修の中で大きな反響を引き起こしています。大人数の学法グループでは、それを1人1部を持っています。一日に何回もその文章を学びながら、ほかの同修に「しっかりこの文章を学んでくださいね」と推薦する人もいます。師父はずっと私たちに内に向けて探すようにと教えておられ、大法弟子の誰もが内に向けて探すことは最も有効な方法だと分かっていますが、しかし本当に問題に遭った時、内に向けて探すことをどれほどやり遂げたのでしょうか? 一方、「功能のある」修煉者が書いた文章を、どうしてそんなに真面目に学ぶのでしょうか。結局、それは功能に対する執着ではありませんか?
功能があっても、修煉者が悟ったことは法ではなく、宇宙の真理ではありません。多く学んでも、あなたの執着心、体の良くない物質は取り除かれますか? あなたの心性は高まってくることができますか? 執着心と良くない物質は修煉の中で、三つのことをしっかりと行う中で少しずつ正されるもので、功能のある人が書いた文章を読んだら正されるものではありません。近道を探すと、かえって功能に対する執着を助長してしまいます。
師父の法こそ、私たちは永遠に学ばないといけないもので、学法をすることはいかなる事にも邪魔されるわけにはいきません。特に学法グループの責任者は、みんなの学法を邪魔し、師父が我々に残した修煉の形式をかく乱すれば、それなりの責任があると思います。
もう一つの問題とは、功能を持つ修煉者はよく天目で見たこととして、自分は以前だれそれの歴史人物だったなどを興味津々にみんなの中で言いふらすことです。それを聞いた修煉者は、また興味津々にその話を他の修煉者に伝えています。私自身も以前、「だれそれは歴史上の○○だったのよ」と軽々とうわさを広げることがあったのですが、今、大法をもって判断すれば、それはすべて間違ったことです。それは修煉者の中でうわさを広げることではありませんか? 同修の好奇心とその他の執着心を引き起こしてしまいます。それらの人心はちょうど修煉者が取り除くべきものですが、私たちがうわさを伝播したために、かえってその執着を増やしてしまいました。それでは、私たちは悪い事をしているのではありませんか?
同修Bさんは天目を通して、自分はかつて某歴史人物だったのを見たと言っています。その人物が殺害された時のことを話すと、Bさんはいつも腹が立って、憤慨を隠せません。また、同修Cさんは自分が歴史上の○○であると思って、かつてそんなに多くの悪い事をしたと言うたびに、涙がぼろぼろと流れて、「自分」の過ちを責めるのです。同修の皆さん、師父があなたの功能を開いたのはこれらのためでしょうか? あなたに精進させるために開いてくださった功能ではありませんか? BさんとCさんのような修煉者は、功能が開いた意義を理解しておらず、かえって妨害されていました。功能について、みんなが目を覚まし、正しく悟るべきではありませんか?
功能を持つ修煉者に、自分の功能を正しく使うよう私は切に願っています。そして、功能の話題を聞きたがる修煉者に、他人の功能に心を動かされないこと、功能を持つ人の執着心を引き起こさないこと、自分と他人の修煉環境を邪魔しないことを切に願っています。顕示心を持たずに少し功能について話すのはかまわないと思います。周囲の同修に、特に精進していない修煉者にとってプラスの作用があるからです。しかし、功能のことを大きく持ち上げることは、その中にきっと人心が混ざっていて、周囲に対して妨害になるに違いありません。
最後に、師父が『洪吟』の「求正法門」で説かれた「功能は本より小術 大法こそ是れ根本」をもう一度思い出しましょう。