文/中国の大法弟子
【明慧ネット2015年7月15日】先日、私はA同修から自分が高慢だと言われました。偶然にも会社の同僚に同じことを言われました。その後B同修と交流すると、彼は謙虚であることは、とても重要だと言ったのですが、自分はなかなかできていません。
修煉者として、自分にそのつもりがなくても、相手に言われた事は内に向けて探さなければなりません。私は十数年も修煉してきて、死も恐れないのに、まだ高慢の心があるなんてと思いました。しかし、小さい執着と思っていても、師父が『2015年ニューヨーク法会での説法』の中で説かれているように、内に向けて探し、取り除かなければなりません。
今日『精進要旨』の「常人の心を放下して着実に修め続ける」の経文を読んで、私は高慢に見られる原因は自分が特別だと思う心があるからであると悟りました。
社会階層は、心性の高さと修煉の次元を表すことができません。少しでも同修を軽視する心があれば、膨張し、舞い上がり、高慢になり、謙虚になれません。長期間にわたって、この心を取り除くことができなければ、心より魔が生じることからは遠くはありません。
大法弟子の中に階層は存在しません。迫害始まる前の輔導点にもありませんでしたし、衆生を救い済度するプロジェクト中での協調にも、階層はありません。特別な大法弟子などは存在しないのです。明慧ネットで発表した『出発点』の中で「修煉を第一とせず、衆生を救うことを着実に行わず、人心を出発点としています」と言及されているように、自分を膨張させ、心から魔が生じました。それでは「事が起きた時、自分の出発点は衆生を救うことにあるのか、あるいは個人の私欲、人心にあるのでしょうか?」。
階層と自分を特別だと思う心を放下してこそ、師父が要求された「常人の心を放下して着実に修め続ける」境地に達するのです。そして私たちは人を救い済度する過程で、本当に「無私無我、他人を先にして自分を後にする」という正覚に達することができます。
個人の悟りですので、不足があれば指摘を願います。