文/米国の大法弟子
【明慧日本2015年8月3日】今年5月のニューヨーク法会に参加してから、私の修煉状態はとても大きく変わりました。法会の翌日の夜、私は『轉法輪』第9講を学ぶ時、「佛を拝むことは本当の修煉の役に立ちますか? あなたは非常に敬虔で、佛像に触らないように気をつけたり、毎日線香を立てたりしているようですが、本当にあなたの修煉を指導できるこの大法をそんなに汚していいのですか」の部分を読んでいました。この部分を何回も読んだことがありますが、しかし私は仏像を拝んだりしたことがないので、今までここを読んで自分には直接関係があると思いませんでした。しかし、その日はなぜかこの部分はとても心に響きました。私は繰り返し何回も読んで、その部分は私の修煉上の大きな問題をついたと感じました。
ここの「佛」は私にとって、寺の中の仏像を指すのではなく、長い間私の空間場に存在する一つの「うその私」です。この「うその私」は、後天の知識と観念からできたもので、長い間、私はそれを本当の自分だと思ってきました。そのために、修煉はずっとある次元に止まって上へ突破することができませんでした。
「うその私」はいかに形成されたか?
私は小さい時から本を読むのが好きで、中学生のときから哲学などの書籍を読み始めました。大学に入ってから、東方と西方の哲学、文学、宗教などを一通り勉強し、一流の大学者、大思想家になることを志しました。長年にわたり勤勉に本を読んでいるのは、人生の意義に対する追求もあれば、世間で名を上げたい虚栄心もあります。アメリカに留学した時に、幸運にも法輪大法に出会って修煉を始めました。修煉の初期、私はむさぼるように師父のすべての説法を拝読して、今までの人生の中ですべての不可解な難問の解答を得ました。私はとても嬉しくて、すぐにみんなの中に溶け込んで真相を伝える活動に身を投じました。しかしその時、自分には大法を利用しようとする心があることに、私はまだ気づいていませんでした。
2003年10月、私は明慧ネットにある学習者の交流文章を読みました。作者は「自分はほかの修煉者と同じく学法をして煉功もし、真相も伝えているが、しかしその出発点は大法を利用することで、師父を利用して向上し円満成就することなのだ。大法と師父を守って、大法を実証して衆生を済度することではない」と書いていました。作者はまた『精進要旨・大法は利用されてはならない』の中の一段落を引用しました。「そのため、ある問題がもたらされ、常人の中に現れてきました。たとえば、元々、大法に反対していたり、大法を信じていなかった人までもが大法を学び、修煉しに来ました。大法はすべての衆生を済度することができ、いかなる人が学びに来てもわたしは反対しません。わたしは大法をほかでもなく、衆生に伝えているからです。肝心なことは、それらの人が心の中でわたしを彼(彼女)らの真の師父と見なさず、大法を学ぶ目的は、大法を利用して彼(彼女)らの心の中の放下できないもの、宗教の何らかのもの、あるいは彼(彼女)らの心の中の神を守るためです。これは法を盗む行為です。大法を利用しようと思うこと自体、容赦できない罪なのです。しかし、彼らの中の一部の人は、人間のこの一面の考えがそれほどはっきりしているわけではないので、わたしはずっと彼(彼女)らを観察しています」
その文章を読んで、頭上で雷が炸裂したように私は大きく震撼され、自分にも大法を利用したい心があると気づきました。私は何らかの宗教に正式に帰依したりしていませんが、しかし心の底では大法を利用して知識を求め、大法を学問研究の道具にしてしまいました。そのため、法に則って法を理解することができなくなっています。そこまでの1年余りの修煉過程を思い出せば、ずっと自分を1人の学者だと思い、学術界に強い帰属意識をもち、大法を利用して自分の学術の夢を実現させようとする考え方はまだ変わっていませんでした。
私はその文章に深く震撼して、何日も脳裏から離れませんでした。そして、私は修煉の動機を正すように努力して、修煉状態が少し変わりました。大法に言及する時、私は「よそもの」ではなくなったようで、学術界にも帰属意識がそれほど強くなくなり、自分を大法の中の一つの粒子と思い、法を踏まえて法を認識できるようになりました。それから、似たような文章を読んでも、それほど強い感銘を受けませんでした。
しかし、その問題は根本から解決されていません。今回のニューヨーク法会で師父の説法を聞いて、自分の修煉はずっとある次元に留まった原因が、やっと分かりました。
つまり、私は心の底でずっと「学者である、うその私」を守っています。誰かがその「うその私」に触れると私はすぐ抵抗します。「彼」のスタイルで物事を考え、話し、行うたびに、仏像に線香を立てると同じように、「彼」を補強させ、エネルギーを補充することと同じです。
その問題は私の修煉の各方面に現われています。例えば、私は1999年以降の新経文を学ぶことが好きです。それらの新経文の中で、師父は極めて奥深い、法を正す法理を語られたので、「読めばすっかり満足した」感じがして、そのような奥深い法理を理解したと自惚れました。
また、小さな事における修煉を重視しません。同修や家族との間にトラブルがあると、表面上では我慢するのですが、しかし掘り下げて執着心を探し出して除去する努力をあまりしたことがありません。「今は正法修煉の時期で、大法弟子は衆生を救い済度する大事をやっているので、これらの小さな事はそんなに重要ではなく、もちろんこれらの執着心は除去していかなければならないが、今はこれほど大法のプロジェクトが忙しいので、これらの小さな事に気を取られる必要はない」と自分のために言い訳を見つけました。
また、交流する時に、小さな事においてどのように心性を修煉するかを同修が話すと、私はよく心の中で「どうしてこんなにこまごまと煩わしいことを・・・」と思い、自分の視野は広くて、大きい問題に着眼していると自惚れました。
もう一つ私自身をとても驚かせた発見があります。数カ月前に、自分の話し方や文章を書く時に、なんと「共産党文化」の特徴がまだ多く残っていることを発見しました。『中国共産党についての九つの論評』が発表されてから、特に「党文化」の概念が出されてから、私はその問題をとても重視して、ふだんから自分の身体から「党文化」を取り除くように気をつけており、自分にはあまり「党文化」が存在しないと思っていました。しかし最近、自分を改めて評価してみると、党文化の言葉の特徴――うそ、大言壮語、空っぽの内容、残忍、抽象的、主体を曖昧化させる(「私」と言わず、いつも「「私たち」と言い、自分個人の意見を大多数の意見であるように見せかける)ものを持っていることを発見しました。あの「学者である、うその私」は大言壮語と空論を「視野が広い」ことにし、「抽象的」を「考え深い」ことにし、「残忍」を「当然の手段」にし、「主体を曖昧化させる」を「客観的」にしていました。
実は考えてみると、理解できないわけでもありません。中国共産党の理論は一種の哲学の形として存在しているのと同じように、私の身にまだ残っている「党文化」の特徴は、私の「知識人の弁え(前提)で大法を学ぶ」という正しくない状態とは、表裏一体の関係でした。
もちろん、長年の修煉において、ずっと自分を見失って主意識が弱い状態にいるわけではありません。ただ「学者である、うその私」は非常に強くて、修煉者としての正念を圧倒してしまいそうでした。結果として、私は無数の向上の機会を見逃して、トラブルの中で表面では「忍」をやり遂げたように見えますが、実は心性を修めていません。さらにひどいのは、自分が修煉の機会を無駄にしている、ということすら意識できませんでした。
今年のニューヨーク法会で、師父は「また、小さいことを修煉の中で気に留めていませんが、結局大きな問題となってしまいました」とおっしゃいました。師父の言葉は棒喝のように私を目覚めさせました! 小さいことを重視しない、物事に対する対応の仕方が常人のようだというのは、私のことを言っているのではありませんか? それに気付いてから、翌日に学法をする時、私は深層の原因、つまり前段で私が分析した「学者である、うその私」を突き止めました。
なんと夢から覚めたような感じでした! 長年の修煉を経ても、いくつかの執着心がどうしてまだそんなに頑固に存在しているのか、あの「うその私」は絶えず執着心を守って言い訳を探しているのです! ほんの少しの差ですが、それこそ修煉者と常人の違いです! 修煉上の漏れが一つあり、間違った認識が一つでもあれば、執着心は除去できません! 家に例えれば、多くの扉をしっかり施錠しても、1枚の扉を施錠しないと、泥棒はそこから自由に出入りすることができるのです。
わずか数日ですが、私の修煉状態が大きく変わって、当初の予想を超えました。ここに小さい例を挙げて説明します。
同修のAさんに頼まれて私は1篇の文章を翻訳しました。Aさんは訳文の1カ所が気に入らず、「なんとなく変な感じだ」と言いました。私は自分の文章能力にたいへん自信を持っているので、思わず「訳文は、訳してから私が一字一句校正しました」と答えました。つまり、私が真面目に翻訳したものなので、問題があるわけがないと考えていました。
同じことは去年も一昨年も起きました。一昨年、私が書いた文章を読んだAさんは「全体はとても良かったのですが、1カ所だけ、私が少し手を加えました」と言うので、私は思わず「そうですか? 私が書いた文章は完璧ではなかったのですか」と言いました。去年、同修のBさんは私が訳した文章を「表現が素朴すぎて、華やかさが足りない。もうちょっと見直してください」と言いました。私は口では何も言いませんでしたが、心の中で「原文はもともととても素朴な表現を使っているので、訳文をどうやって華やかにできるというのか。私にうそでもつけというのか」と思いました。
上記のことでAさんとBさんと口論にはなりませんでしたが、しかし私は心の中で不満でした。その時、修煉において厳粛に考えず、心性を向上させることができませんでした。
そのため、今回同じことが起きて、同じように同修に訳文を指摘されると、私は「これは小さな事であると軽視してはいけない、厳粛で真面目に対応して、その中から執着心を探し出して、それを除去しなければ」と意識しました。どんな執着心でしょうか、明らかにそれは闘争心です。私は闘争心を抑えて自分の訳文を見直すと、1カ所だけ変な感じがしたどころか、多くのところに手を加えれば、もっと良くなることを発見しました。
ここ数日、私は自分の修煉を振り返ってみて、多くの執着心の根源はその「学者である、うその私」に由来していたことを発見しました。実は師父は『轉法輪』と『精進要旨』で繰り返しその類いの問題に触れておられましたが、私はずっと執着心を抱きながら学法をしていたため、大法の法理が見えず、多くの時間を無駄にしました。
それらを悟ると、私はかつてないほど楽な感じがしました。どんなに小さな事でも執着心を暴露させることができるというのは、1日の中でたくさん修煉の機会があることを意味しているのではありませんか? 「大きい試練」に期待する必要はなく、生活の中のすべての出来事に真面目に対応さえすれば、それこそ修煉になるのではありませんか? 「視野が広い」、「大きいことに着眼する」ことへの追求を止めれば、「うそ、大言壮語、空論」を根絶することができて、「真」をやり遂げられるのではありませんか?
修煉者のいかなる心性の向上も、すべて師父の慈悲と心血を対価にして得たものなので、自分が悟った法理は自分だけのものではないと私は思います。そのため、浅はかかもしれませんが、体得したことを書き出して、同修の皆さんと分かち合わなければならないと思いました。