文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年8月18日】
三、職場環境の中で心性と次元を向上させる
私はもともと嫉妬心やメンツを重んじる心や自尊心がとても強く、他人が自分より優れているのを見ると気分が悪くなりました。いつも密かに他人と張り合っており、一日中渋い顔をして、まるで他人に貸しがあるかのような表情をしていました。さらに、他人の傲慢さと自分への無礼や軽蔑を許せませんでした。心の中ではいつも落ち着かず、他人が自分を傷つける事を恐れていました。大法を修煉してから、学法を続け、師父の説法の録音を拝聴していくうちに、私の心はだんだん明るくなりました。人生の得と失の理由がわかり、名声を追求する心を放下し、人としてどのようにすべきかがわかりました。
師父は私たちにどこでも良い人になるよう求め、問題に遭った時は内に向けて探して「自分が正しくても、正しくなくても自分の問題を探すべきです」[1]、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[2]よう求められています。「この世界で、師父だけが私を変える事ができる。なぜなら『真、善、忍』という宇宙大法で照らし合わせているからだ」と感じました。以前の私の生命は本質から変異していて、歴史上の謀略と計略を尊重していました。職場環境の中で、つまらないことに欲を出し、事務用品を勝手に家に持って帰って使いました。またそれがすごい事だと感じており、波のまにまに流されるかのように、道徳もそれにつれて落ちていきました。
師父の大法は、私をこの状態から目ざめさせ、人生の因縁関係をわからせてくれました。師父は『轉法輪』の中で「失わないものは得られず、得るためには失わねばならぬ」の法理と「タオルの端切れ」の例を説かれました。それは私に大きなショックを与え、それからは、自分の言動を大法の基準に照らし、さらに高い次元を目指して邁進しました。
「忍」について、私はいつもダラダラしていましたが、やはり自分に厳しく要求すべきだと思いました。心をえぐられ骨に突き刺さるように感じましたが、師父が説かれた「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[2]を堅く信じました。私が耐えて、試してみさえすれば、難や関を乗り越える事ができます。なぜなら師父は「もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません」と説かれたからです。
少し例を挙げますと、私は80年代末に卒業して職場へ配属された大学生でした。仕事の成績が良く、リーダーと上司の信頼を得て、もうすぐ昇進できる所まで行っていました。2001年、私は法輪大法を堅く学んでいて「天安門焼身自殺の捏造」について指摘すると、不当に拘束され、労働教養所に2年入れられました。家に戻った後、職場に戻りましたが降職降級されて今はただの一般職員です。同じ事務室のある同僚は、中学を卒業しただけですがコネで入社しました。最初はタイピストでしたが、だんだん昇進して、今の事務室の主任になりました。この事はいつも私の気に障り、嫉妬心、メンツを重んじる心、虚栄心、闘争心、名利心、顕示心など、各種の人心が私の邪魔をしました。心中穏やかでなく、嫉妬心で押しつぶされそうで、とても苦しかったのです。主任の話し方は平素から横柄で、道理が通らず、傲慢で、他人を尊重していません。そのため、私の心はいつも傷つけられました。しかしぐっと耐えて、「自分は修煉者で、みずからに厳しく他人には寛容な態度を取らなくてはならない。他の人の一般見識を当てはめてはいけないのだ」と考えました。
しかし、法理を理解しても、行うのは難しく、心性が向上しないのであれば、関を克服した事にはなりませんでした。ある時、主任は本当に怒ったような顔でした。私はかつて心の中で何度も主任が悪の報いを受けている情景を想像しました。ついに私は主任が横暴で筋の通らないことに我慢できなくなり、激しく口論を始めました。しかし、口論の後いやな気持になりました。私は自分のためにこのように常人と言い争ってしまい、その間違いに気づき恥ずかしく感じました。しかも、行動が修煉者の基準に達しておらず後悔しました。数カ月のにらみ合いの後、私は自分から主任との緊張した雰囲気をほぐそうと思いましたが、強烈な人心、メンツを重んじる心、頭を下げようとしない心、虚栄心、闘争心がその一歩を踏み出そうとする私を邪魔しました。
それらの執着している人心は私のものではないことに気づいていました。なぜならそれらは邪悪のコントロール下にあったのですが、それでも私は自分が醜いと感じました。私は発正念で自分の空間場を浄化し、心の奥底に埋もれている各種の執着と人心を浄化しました。私は集中して学法し『轉法輪』第四講の「業力の転化」と「心性を向上させる」というこの二つの説法を学ぶたびに、師父はわざわざ私のように個性が強く、人に頭を下げたり、謝ったりしない人間に説いてくださっていることを理解しました。
私はいつも師父の『精進要旨』を暗記していました。「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[3]。「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[4]
師の法はこんなにも明瞭に説かれているのに、なぜできないのでしょうか?。「すみませんと頭を下げる事が本当にそんなに難しいことなのでしょうか。私の行動は修煉者を表していますか。どうして憤慨するのですか。彼女の表れは私の心性を高めているのではありませんか。それなのに、どうして心性を高める機会を押しのけようとするのですか」と自分に問いかけました。「今回、この関は必ず越えなければならない」と一念を強くしました。そこで、年末年始を利用して自分から新年のあいさつをメールで主任に送り謝ると、主任からもメールが来て自分の非を認めました。問題は解決し、ついに私はその一歩を踏み出し、私の前進を阻んでいた人心と執着を解体し、重い風呂敷包みを下したかのように、心はすぐに軽くなりました。
「人間は実践の中で本当に自分を錬磨しないかぎり、向上することはありえません。『どうして煉功すると、次々と厄介なことにぶつかるのでしょうか。しかも常人の中の厄介なこととあまり変わりがありません』と言う人がいます。あなたは常人の中に身を置いて修煉するのだから、突然あなたを逆さ吊りにして空中に引き上げ、宙にぶらさげたまま苦労をさせるわけにはいきません。今日、誰かがあなたの気に障るようなことを言ったとか、誰かがあなたを怒らせたとか、誰かが失礼なことをしたとか、あるいは誰かがあなたに不遜なことを言ったなど、いずれも常人の中でよく起きる状態ですが、そこであなたがどう対処するかが問題なのです」[2]という師父の説法を学びました。
この法には、さらに奥深い悟りがあり、自分がどのように修煉すればいいのかがやっとわかったような気がしました。心にはもうわけのわからない苦悩は存在せず、顔には輝く笑顔が現れ、身も心も軽やかで、名利に対して徹底的に冷めた見方をするようになり、生まれ変わったかのようでした。まさに師父が説かれた「相は心から生じる」[4]のようでした。
私の心が変わり、主任は真相に対する対応でも以前のように排斥する事はなくなり、私が伝えた王立軍と薄煕来が法輪功修煉者に対して行った生体臓器狩りによって暴利を得た驚くべき真相も静かに聞きました。
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
[4] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「忍とは何か」
[5] 李洪師父の経文:『各地での説法十』「大紀元会議での説」