文/ミズーリ州の大法弟子
【明慧日本2015年8月22日】
尊敬する師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
地元で「人権聖火リレー」を迎える
私は2000年に法輪功の修煉を始めました。修煉して数カ月経って、法を正す時期の大法弟子への要求を理解した時に、一番最初に心に浮かんだ気持ちは、愚痴でした。他の同修は長く修煉してきて、個人修煉の基礎をすでに作ったのに対して、初心者の私はまず個人修煉に集中したいのに、どうして最初から大法の仕事をやらなければならないのかと思いました。しかし、真相を伝えることをやればやるほど、私はだんだんと多くの法理を悟り、返本帰真の願望を実現できることを嬉しく思うようになりました。
2001年の夏、現地の同修は州政府のホールで「真善忍美術展」を開催しました。テレビ局の記者が来て、州知事も法輪功に表彰状を贈りました。しかし、自分はその機会を掴んで政府の職員や周辺地域の市民に法輪功迫害の真相を充分伝えていないことを後悔しました。美術展の前に私は住宅地に宣伝用ポスターを貼りしましたが、私は自ら住宅地の住民や州政府の職員らに直接真相を伝えていませんでした。美術展のような市民に共鳴してもらえるイベントは、一般市民と接触して法輪功迫害の真相を伝える絶好のチャンスだと、美術展を通じて私は分かりました。今後、常人社会に近づいて真相を伝えるこの類の機会を必ず掴んで、多く真相を伝えようと私はひそかに決心しました。
2008年北京オリンピックの前に、世界各地で行われた「人権聖火リレー」を知った時、これはちょうど常人社会に近づくことができるイベントだと私は意識しました。そのイベントは法輪功以外の人権団体にも関係しているので、多くの人がきっと応援しに来ると私は思いました。いろいろな人や団体に「人権聖火リレー」を知らせた際、もし「人権聖火リレー」の内容を簡単に紹介した後に、法輪功を話題にして、法輪功とは何か、どうして迫害を受けているのかなどの事実をはっきり説明すれば、良い効果を収められます。一方、もし中国で起きている人権迫害の事実を大まかに話せば、聞く側は私が想像したように進んで支持の意を表すのではありませんか。そのため、常人団体に「人権聖火リレー」に参加の依頼をする際に、毎回私は法輪功迫害の真相を重点として話します。そうすると、最後の結果がどうなるかに関わらず、毎回の談話が真相を伝える機会になったのは間違いないのです。
当時、私が住んでいる州には、全州をあげても3人の同修しかいませんので、「人権聖火リレー」のような大規模なイベントを催すのは大変難しいことでした。イベントは私自身の能力をはるかに超えたため、やっていく中での一歩一歩は師父に頼らなければならないと思いました。今でも当時の感銘を鮮明に覚えています。イベントの場所を押さえた時、巨額な保険料を支払わなければならないと教えられました。私の力でどのように保険料を払うかをは全く見当つかなかったのですが、しかし必ず解決方法があると私は信じていました。結局、ある団体が迫害の残酷さに驚いて、修煉者が行なった反迫害活動に感動し、「人権聖火リレー」のスポンサーになってくれたほか、保険の難題も解決してくれました。
「人権聖火リレー」が始まる数週間前に、場所の工事が原因で、私たちに場所を貸せる期間は1カ月遅れることが突然知らされました。最初、私はとても怒りましたが、しかしすぐにこれは師父の按排だと意識しました。遅れることは、私たちはより多くの時間に常人に「人権聖火リレー」を知らせられることを意味します。結局、あるオリンピック金メダル選手とある州議員が「人権聖火リレー」に参加してくれて、現地のとても有名な音楽家数人も私たちのイベントのためにパフォーマンスを披露することを承諾しました。当時、私が住むその都市は有名な観光地で、1カ月遅れたおかげで、「人権聖火リレー」が行われる時はちょうど現地の観光シーズンと重なって、天気も良いし、より多くの観光客に「人権聖火リレー」を見てもらうことができました。
「自由に向かう自転車の旅」を迎える
今年、「自由に向かう自転車の旅(ride for free)」は私の住む州を通りました。適切な劇場が見つからないために神韻芸術団を招へいすることができない我々にとっては、それは貴重な機会です。中国の法輪功のために迫害された孤児を救援するために自転車で米国を縦断するこの活動は、若い修煉者らによって実行されているようで、そのようなイベントはとても一般人に共鳴されやすいです。
「自由に向かう自転車の旅」は以前私が住んだ都市を通ることになり、私の現在の家までの距離は車で2時間ほどです。私は現地の同修のAさんに連絡して、「自転車の旅」が現地に来る時に開く集会を一緒に企画し始めました。私たちに残された時間は1カ月しかなく、集会の細部、特に場所の選定にはとても手を焼きました。私たちはどの場所に決めるかを繰り返し討論しました。選択肢は二つありました。一つは裁判所前の舞台で市の中心部にあり、もう一つは「自転車の旅」のルートにある、郊外の小さな公園です。メディアが取材してくれれば、場所はそれほど重要ではないという同修もいましたが、私ともう1人の同修は、比較的正式な場所が良いと思いました。しかし私たちは「自転車の旅」の担当者に連絡を取れず、彼らがルートを変えて市の中心部に来て集会に参加してくれるかどうか、知りようがありませんでした。
あれこれ煩わしいことのために私は焦ってしまい、歯が激しく痛み、熱も出ました。同時に、Aさんも話せなくなるほど歯ぐきが痛くなりました。それから、私はやっと「自転車の旅」の担当者に連絡を取ることが出来ました。彼も正式な場所が良いと思い、その上ルートを変えて私たちの企画に合わせることを承諾しました。彼の言葉の、「市の中心部にある裁判所前の舞台は適切な場所です」は、師父からのご啓示だと私はその時に感じました。
振り返ってみると、場所の選定に私は何故それほど焦ったのか、その深層の原因が分かりました。市の中心で集会を行うと、参加者を招集するには大変な苦労をしなければならず、一方、郊外の公園で集会を行うと、観衆を集める苦労をしないで済むのです。私の内心ではそのような比較がありました。
あのころ、私はよく『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』の中の言葉、「プロジェクトを順調に進め、プロジェクトが人を救う力を持つようにしたければ、仕事をより良く行い、真剣に取り組み、多くの時間を掛ける必要があります。このような情況では、自身の修煉を行う時間がないように見えます。しかし、どんな情況下でも、皆さんは時間を作って修煉し、時間を作って学法すべきです」を思い出しました。
師父の言葉は私の心を落ち着かせました。大法のプロジェクトに私は真剣に取り組んで、学法と修煉を継続する中で前に進めば良いと私は悟りました。最後の結果に関して、私は心配する必要がなく、心配しても役に立たないのです。
現地の人権委員会会議で我々は発言する機会を得ました。中国で自ら迫害を受けた同修がその日に発言し、委員たちはとても感動して、私たちを助けることを承諾しました。ある委員はすぐに「自転車の旅」のメンバーに無料の昼食を提供してくれました。
それぞれの準備がだんだん整いましたが、集会の時に十分な人数を招請できるかどうかについて、私は何回か心配したことがあります。内に向けて探せば、そこに自分の闘争心があることに気付きました。以前、他の州の同修と交流する時に、彼らの地区で集会を行う時に非常に成功したと聞いて、私に強い闘争心が生じて、今後自分の地区で何かをする時に同じように成功させたい、彼に誇示したいと思っていました。今、自分の闘争心を意識した後に私はたいへん恥ずかしく思いました。
翌日、連邦議員の秘書からメールがあり、議員が集会で発言することに同意したといいました。同時に、市のある官僚は集会のために通行整理に人を提供すると言い、以前私が真相を伝えた2人の州議員は褒賞を贈ってくれました。
集会の2日前に、私たちは現地の市場で署名活動を行いました。母は署名活動のために大きな旗を作ってくれました。上に「法輪功のための自転車の旅、孤児を救援しよう」と書き、真ん中に州の地図を描きました。地図の部分を白色にして、そこに署名を書いてもらいます。テレビ局の記者が取材に来て、市民が旗に署名するシーンを撮影しました。その日の夜、テレビ局は私たちの署名活動を報道しました。
その1カ月の間、現地はほぼ毎日のように雨が降っていましたが、「自転車の旅」がやってきた日に、空は晴れ渡って涼しかったのです。その日は月曜日でしたが、多くの人が集会に参加して我々に応援の意を表し、テレビ局と新聞社も取材に来ました。人権委員会のある委員は今後引き続き私たちの活動を応援したいと言ってくれました。
集会を準備する過程の中で、たくさん感動的な事がありました。ここに一つ例を挙げたいと思います。Bさん(女性)は私の母の友人で、宗教や信仰に関係することにすべて反対します。彼女は法輪功もその類のものと思うため、ふだん、私と母は彼女に法輪功の話題をとても話せませんでした。集会の前、母が彼女に音響設備を借りるとき、彼女は「設備を組み立てることは手伝いますが、法輪功の集会に参加したくありません」と言っていました。集会の後、設備を片付けに来た彼女に、近くの公園で「自転車の旅」のメンバーたちと一緒に昼食をするように私は誘いました。昼食をしながらメンバーたちは彼女と雑談すると、彼女の態度は徹底的に変わりました。彼女は進んで「私は旗に署名して良いでしょうか、あなたたちを応援したい」と行ってくれました、それから、彼女は自分のブログで「自転車の旅」を称賛しました。
一般人に共感されるような活動は私たちにとって真相を伝える良い機会ですが、そのような活動は常にあるわけではありません。そのような活動がない時、私たちも他の機会を掴んで真相を伝えることができます。私たちが真剣に取り組む時、師父はきっとさまざまな機会を按排してくださると私は信じます。
自信を持って州議員に真相を伝える
今年の初め、ある州議員は法輪功迫害と臓器狩りを早く停止させるための決案を提起しました。私たちにとって、これは各議員の事務室を訪問して真相を伝える絶好の機会です。なぜかというと、私たちは議員と話す時に、明確な話題があるからです。忙しい議員らにとってそれはとても重要なことで、明確な話題があれば、彼らは真剣に耳を傾けてくれるのです。
私たちは多くの議員を訪問しました。ある日、州政府のビルの廊下で私はある議員とすれ違いました。彼は満面に笑みを浮かべて、「さきほど私はあの決議に同意するための署名をしましたよ」と言ってくれました。そして、彼は腕を伸ばす煉功の動作を真似て、「私はあなたたちの功法も試してやりました」と言いました。彼の内心からの嬉しさを私は捉えました。
続いて議会が終了するまでの数週間、時間がある限り私は1時間あまり運転して、州政府にいき議員たちを訪問しました。多くの時、他の都市の同修も応援に来ます。私たちは一緒に協力して交流し、それぞれの方法で議員たちに真相を伝えました。時には廊下で議員に話しかけ、時には事前にアポを取って、議員の事務室に行きます。それまでに私は議員の秘書にしか真相を伝えたことがなく、何かイベントがある時も秘書を通して議員に出席依頼をして、議員たちと直接会って話すことはほとんどありませんでした。
議員たちと向かい合って会話して、彼らに助けを求めることは、私にとって大きな進歩でした。以前、自分は何か重要な人物でもないので、議員はきっと私の言葉を聞いてくれない、という観念をずっと持っていたため、私はあまり自信を持てませんでした。しかし今回、私は消極的に待ったりしませんでした。私は議員をすべて自分の友人のように思い、友人ならば、法輪功迫害の真相を教え、彼らに自分を正しい位置に置く機会を与えないといけない、と思うようになりました。
多くの古い弟子はよく師父の言葉、「初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得ることができる」(『各地での説法九・二〇〇九年大ニューヨーク地区国際法会での説法』)に言及します。はじめて修煉に入った時を振りかえると、求める心が強くて自我にたいへん執着する自分が見えました。進んで大法で自分を変える努力もしませんでした。しかし、ここ数年来、躊躇する心理を放下して勇敢に困難に直面するようになってから、私は自分の変化を感じました。そして、私の心も次第に落ち着いて、度量も大きくなりました。日常生活に貴重な修煉の機会があちらこちらに潜んでいて、私もだんだんとそのような機会を大切にすることを学びました。
師父、ありがとうございました!
同修の皆さん、ありがとうございました!
(2015年米国中部法会の発言原稿)