文/中国の大法弟子 子ハク
【明慧日本2015年9月11日】
私は地元の明慧レポーターとして数年間、同修と切磋琢磨して互いに交流しながら、いかにして地元の真相資料と真相の手紙の質を上げるかについて問題を提起してきました。あるレポーターは、「簡潔に、理性的に、生き生きと、中国共産党の文化や思考を伴わない文章を書きさえすれば、人心を貫き、常人の同意を得て、常人に大法の真相をわからせることができる」ということでした。資料拠点の同修の情報収集、整理、文章、植字にかかわる過程で、私たちはとても息が合っていました。私たちはたとえトラブルと心性面の摩擦が起きたとしても、内に向けて自分の不足を探し、この小さな全体を円融することができました。私にとって、この期間は確かに自分を鍛える過程になりました。
大法のホームページに投稿を始めた時、基本的にすべての文章が発表されました。当時、私が投稿していたことはほとんど誰も知らなかったので、発表されようがされまいが別に気にしていませんでした。
その後、地元の明慧レポーターを担当するようになってから、突然見えない圧力を感じるようになりました。中国共産党の迫害を指摘する文章であろうと、法輪功迫害の手紙であろうと、明慧に投稿した後、投稿文章が発表されたかどうか気にするようになりました。発表されれば喜ぶし、発表されなければ意気消沈しました。さらに、文章が発表されなかった時は、明慧の編集担当の同修が間違っているのではないかと疑うようになってしまいました。
明慧ネットの様子を観察した結果、明慧ネットで発表される文章には、ある基本的なことが要求されていることが見えてきました。中国共産党の迫害を指摘する文章にしろ、真相の手紙や交流文章、あるいは時事評論などにしろ、論理が適切でまぎれもない事実であり、筋道が立って内容のある文章であれば、人々に真相をわかってもらうのに有効な投稿であるとして発表されるのです。投稿の一部に不適切な所があったとしても、編集の同修が適切に調整し、修正した後に発表されます。
それでは、なぜ私の投稿が発表されないことがあるのでしょうか。主な原因は、発表されなかった私の文章と発表された文章とはまったく逆で、文章を書く出発点が間違っていたために、中身の内容がなくなってしまったか、文章の内容がすでに発表された文章と同じであった、などでした。
しかしその時、私はこのことを悟れなかったばかりか、文章の発表に対する執着がますます重くなりました。主な原因は、自分でも違和感を感じてはいたものの、同修に対してメンツがつぶれてしまうことを恐れたためでした。なぜなら、地元の資料拠点の同修は皆、私が文章を書けることを知っていました。それなのに「書き上げた文章がどうして採用されないのか?」と思われることを恐れたからでした。ある時、協調人が「同修が迫害を受けた例の文章ですけど、すでに何回も明慧ネットに送っているのに、どうしてまだ発表されないんですか?」と私に問いかけてきました。これには私も非常に困ってしまい、穴があったら入りたい気持ちになり、何と答えていいかわかりませんでした。
妻は「これは修煉状態が正しくないからです」と指摘し、「恐怖心、顕示心、思い上がりの心、他人から責められたくない心、仕事に対する執着などの人心がさらけ出されてきたのです」と言いました。大法弟子として、修煉者の角度からこのことを見なければならないので、すぐに自分を正しました。「自分の仕事に対する執着が重く、学法を怠ったことがこんなに多くのやっかいなことを生んだ」ことに気づきました。実は、交流の中で協調人の同修は、「大法のプロジェクトをしっかりこなすには、しっかり学法することが最も重要で、どんなに忙しくてもしっかり学法しなければならない」と私に教え続けてきたのでした。
文章を書くことは中国共産党が行う迫害を指摘し、大法を実証するためであるはずです。私は修煉の中で「私には自分を実証しようとする非常に強い心があり、この心はよくない。自分を実証するのではなく、法を実証しなければならない。時間が経つにつれて大法から逸脱しており、とても危険だった」ことに気づきました。
大法弟子はどんなに忙しくても心を静めて学法しなければなりません。文章を書くことがどうして修煉を代替することになるでしょうか。その後、私は学法し、内に向けて探す中で、さらけ出されてきた人心を少しずつ取り除いていきました。今ではもう、文章が発表されるかされないかということに執着しなくなりました。
さらにしばらくの間、文章を書くことによって中国共産党が行う迫害を指摘することに偏ってしまったために、学法の時間がだんだん少なくなりました。その時、自分の空間場が純粋でなくなってきたと感じました。迫害を恐れる心、恨む心、復讐心、他人を非難する心、劣等感、任務を完成させたい心、自分がやったことを人に話したがる心、闘争心、自分を実証しようとする心、嫉妬心、色欲心などの良くない物質が私の空間場に勢ぞろいして、見えないプレッシャーを私にかけてきたのでした。
今年の2月、交流中に、私が自分の文章の中で採用した言い方に対して、突然ある同修が質問しました。さらにその同修は「あなたが書いた真相の手紙には慈悲や寛容が欠けているので修煉者の善が常人には感じられない」と続けて言いました。これは私に衝撃を与え、恨みの心が顕在化し「こんなにたくさん文章を書いているのに、まさか同修の同意を得られないとは!、私が書いた文章は皆、協調人がチェックし、明慧ネットへ送られてからは編集担当の同修がチェックをしているというのに、どうして問題があると言えるのか?」と思いました。私は人心に促されるままに、すぐに私を批判した同修と口論し始めました。その後、口論に参加する同修がだんだん増えて来て、ある同修は私の味方をし、ある同修は私の不足を指摘しました。
その時、私はとても悔しく感じ、このことが気にかかってどうしても忘れられず、さらに、自分の心性の中に原因を探すことを忘れてしまいました。「往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[3]と、師父は説かれました。トラブルはまだ終わりませんでした。ちょうどその時、あるプロジェクトの責任者が私に会いに来ました。そして交流中に突然、明慧ネットで発表された一遍の文章(責任者の同修は私が書いたものだとは知らない)が回って来ました。責任者の同修は急に感情的になって「この文章は内容が本当に滅茶苦茶だ。使われている用語がまるで見当違いだ」と言いました。私にはこの文章がどうしてこんなに責任者の同修を刺激したのかわかりませんでした。その時の重圧感は極めて大きく、消えてしまいたくて、本当に息も出来ないほどでした。責任者の同修が帰った後、私は「もうやらない。二度と同修たちのやることに関わらない」と不平不満を妻に言いました。
夜になり、いつも連絡を取っている協調人に「これからはもうやらない」と自分の考えを言いました。協調人の同修はすぐに笑い出し、私がまるで子供のようだと言い、「やらないと言ったらやらない、というのはいいけど、他のことをやっても問題が出ないとは限らないだろう? 他のことをやって問題が出たらまたやめるんですか?」と言いました。妻は私の状態が正しくないと指摘し「これは向上の機会じゃないですか。同修が言ったでしょう。今回のことに限らず、あなたは自分に原因を探すべきですよ。いつも外に向けて探していれば、あなたはどのようにして向上するのですか」と言いました。
私は同修の話で頭がだいぶすっきりとし、学法を通して自分を調整し始めました。協調人の同修は交流の中で、関を乗り越えた以前の経験を心を開いて語り、今回のことは皆、私自身の空間場が正しくなく、良くない物質と他の空間の邪悪の妨害によるものだ、ということを私に気づかせました。そこで、私は自分の考えの中に存在する良くない念を取り除き、すぐに言い争った同修に謝りました。このようなことができるのが大法の威力なのです。同修と力を合わせて切磋琢磨する中で、私たちは法理の上でさらにはっきりした認識を得て、それ以後どんなことが起きても法の上ですぐに交流し、互いに向上しました。現在、私たちの地元の環境はどんどんゆとりが生まれました。今では不当に連行されたり、迫害されたりする事例はとても少なくなりました。
六、師父が按排された道を道を、私は歩む
私は天目が開かずに修煉していますが、少し他の空間を見る事ができます。ただ一つ違うのは、私の心が意気消沈したり、怠けたり、悟性が追いつかない時は、私の目の前で二つの法輪が現れて回るのですが、それがとても美しいのです。これは、精進し着実に修煉するために私を奮い立たせようと師父がなさったことで、すべては師父が道をお作りになり、あとは私が行うだけなのだ、ということがわかりました。
文章を書き、真相の定期刊行物を編集する以外に、私は妻と力を合わせ、自宅の資料拠点を守りました。私たち夫婦は修煉を始めてから現在まで、すでに何年もの間、師父のご加護の下で私たちの「小さな花」を着実に運営してきました。さらに妻は三つのことをとてもしっかり行っており、特に直接真相を伝えることに関しては、私よりも良く行うことができます。私は妻と比べることによって、自分に多くの不足があることを見て取れるのです。
多くの同修は私が高学歴の人間だと思っています。「でなければ、こんなに多くの『高い水準』の文章を書けるわけがない」と思っているようでした。私は家庭の事情でずっと前に中途退学し、あちこち奔走していました。実際、私が文章を書くプロジェクトに参加して以降、文章を書くための資料はほとんど読んでいませんでした。その主な原因は時間が足りないからですが、どちらにしても、今から覚えても間に合わないと思ったからです。大法は超常的なもので、私の能力が千年の輪廻の中で蓄積されたのは、今生で大法を実証するために用いるためだったのです。師父の加護がなく、大法が与えてくださった知恵もなく、同修たちの助けがなければ、私は何もできません。すべての能力は師父が与えてくださったものなのです。すべては師父がお作りになった道であり、すべてはできあがっており、あとは私が大法弟子としてやるべきことをやるだけなのです。
この数年間歩んできた道のりを振り返り、そして早くから修煉を始め精進してきた同修と比べた時、大法の法理の認識や、大法弟子としてやるべき三つのことがどうであれ、私と同修との差は大きく、行ってきたことはほんのわずかです。「一人の大法弟子が歩んだ道はつまり、一つの光輝く歴史になりますが、この歴史は必ず、自ら悟って実証し、切り開くものなのです」[4]と、師父は説かれました。私たち大法弟子はすべてこの通りで、各々が自分の道を歩んでおり、そのすべてが師父が按排された道です。どの道を歩もうと、大法の中で修煉してさえいれば、私たちは皆、功を開き円満成就する事ができます。
以上が、私が修煉で少しばかり悟ったことですが、法理に則していないところがあれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。
師父、ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございます!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「学習者の文章に対する師父の評注」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「道」
(明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)