文/イギリスの大法弟子
【明慧日本2015年9月22日】
尊敬する偉大なる師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は20年前の1995年の7月から中国大陸で法輪大法を学び始めました。毎日4、5時間ぐらい煉功と学法をしました。その時座禅の痛みを耐えることは、苦を嘗めることでこれもまた修煉の一部だと認識しました。その2年後の97年にイギリスに来ましたが、大陸同修たちと共に修煉してきた日々から、苦を恐れないことを学びました。
海外に来てから、自分が通っている大学に煉功点を作りました。98年ドイツのフランクフルトで開催された法会で、初めて師父の説法を拝聴しました。師父が発した巨大なエネルギーが、私を浄化し、その時思惟までなくなったと感じました。私はそれをきっかけに、人間の思惟は、つまり修煉者が取り除かなければならない、骨の中まで形成された人間の殻であると分かりました。「修は己にありて、功は師にあり」[1]なのです。海外で18年間の修煉の中で、師父の慈悲とお告げの下で、少しずつ修煉についての認識を深めていきました。
執着を取り除くから観念を取り除くまで
私が10歳の時、4歳年下の弟を失いました。その件で私は人生の無常を感じ、心に大きな影響を残しました。これもまた人生の意義を探させ、修煉させた動機の一つになりました。大法を修煉してから、もともと淡泊な性格の私には、修煉を阻む執着心があまりなかったのですが、情への執着をなかなか取り除くことができませんでした。
一度情の関をうまく乗り越えられなかった時、落ち込んでしまいました。心の中で「何年間も修煉していたのに、情への執着をまだ放下できないのは、どうすればいいのですか?自分の修煉はあまりにも劣っているからですか?」と師父に話かけました。そのうち寝てしまって、夢を見ました。夢の中で芝生の近くに行くと、体が突然羽毛のように軽くなって、ゆっくりと飛び上がったのが見えました。上がっていくにつれ、体を囲んでいたミクロの物質により構成された情が、体から離脱しました。代わりに高尚なエネルギーに暖かく包まれ、人間の思想も私から離れていきました。そのとき私は人間の思想を見ることができましたが、私の中にいませんでした。私は飛び続けて、最後にあるところに着きました。そこに1人の西洋人の顔をしている神様と、その神様の両肩に3、4歳の天使が2人立っていたのを見ました。天使たちが私を見てにっこりと笑っていました。
そこで目が覚めました。夢の中の場面が頭にはっきりと残っていました。これは師父が夢で、情は一種の物質ですが、しっかり修煉すればそれを取り除くことができるし、人間の思想から離脱することもできる、神は人間の思惟がないと、告げてくださっていると分かりました。
師父のお告げにとても感謝しています。この経験から、私は時々自分の修煉を振り返って、どの部分の人間の思想を取り除いていないかを、反省するようにしています。
絶えず法を学ぶことで、私は執着も物質であり、執着が観念に付着していると分かるようになりました。観念を木の根に例えるとしたら、執着は木の枝のようなもので、観念を取り除くことは最も重要だと分かりました。
法を正すことの進展につれ、2001年から私はマスコミの協調と編集の仕事を始めました。それから2009年までの8年間、昼は大学で研究をして、夜は遅くまでマスコミの仕事をしていました。そのある日のことですが、朝の3時か4時ころまで記事を書いて、完成した時眠くて体が言うことを聞かなくなりました。最後の力をふり絞って2階に上がると、ベッドの少し手前で、一気にベッドに倒れこみました。その瞬間、自分がロケットのように速く天の果てまで飛んでいると感じました。
2009年、私は大紀元ヨーロッパの神韻報道の協調人と記者を務めました。神韻のヨーロッパでの1カ月の公演に伴い取材し続け、毎日夜遅くまで記事を作成していました。不規則な生活と緊張する取材の圧力で、1カ月間ずっと業を滅する状態にいました。咳をするたびに骨まで痛くなり、時にはあまりのはげしい咳で息苦しく感じました。胸の痛さで、なかなか眠れませんでした。邪悪の妨害だと分かって、毎日の煉功と発正念を堅持し続けました。幸いなのは、病業の症状がいつも取材が終わってから現れてきますので、取材に影響がありませんでした。
公演まで残り1週間という時、あまりの辛さに、私は取材を早めて家に帰ろうと思いました。しかし、私は記者の中で最も経験のある一人だったので、帰ってしまったら、記事の作成の任務に影響が出ると考え、公演が終わるまで堅持し続けました。1カ月の取材が終わって、私は家に戻り、ゆっくり休んで、体を回復させようと思いました。妻もゆっくり休んだほうがいいと勧めました。しかし、イギリスで神韻を広める活動をエディンバラで行っている最中でした。その協調人から「暫くエディンバラへ来て、協調の仕事を手伝ってほしい」とメールが来ました。体は相変わらず辛かったのですが、神韻の宣伝に必要だったので、躊躇せず行くと返信しました。エディンバラへ着いて、毎日頭が重く、足がふらふらして、胸の骨が痛かったのですが、誰にも言わず、やるべきことを行っていました。神韻が現地に着いた時、体の辛さも消えました。そのことで、私は自分の考えの中で病業のことを気にしなければ、早く乗り越えられると悟りました。
今まで、学法と煉功を緩めないようずっと注意してきました。毎日の学法は思想を浄化してくださり、煉功も修煉の重要な一部ですので、決して安逸心で煉功を怠けてはいけないと思っています。
去年のクリスマスの朝5時ごろ、私は煉功点に着きました。年末だからなのか、私一人しかいませんでした。そこに立つと、和やかに感じました。音楽の流れに従って、心身とも大法の音楽に包まれました。第2式になると、雑念がなくなり、体もなくなったと感じました。
(続く)