【明慧日本2015年10月18日】私は90年代生まれの法輪功修煉者です。この混沌とした世の中で法輪大法と出会えた幸せを言葉に言い表すことはできません。いうなれば、前世に大きな善行を積んだからこそ、今世にこれほど大きな幸運に恵まれたのです。
90年代生まれの若者として、私もほかの同年齢の若者と同じようにゲームに夢中の毎日で、目標もなく、人生が何なのかも分からずに生活してきました。学校を卒業し、会社に就職してから、自分の空虚な生活にやっと気づきました。理解できないことがたくさんあり、このまま意味のない日々を送りたくないと、疑惑を抱いたまま仕事をやめて家に帰りました。
家に帰り、パソコンを付けて、他人の人生観をネットで調べようとしました。そして、不意に中国のネットが厳しく封鎖されていることに気づきました。これを機に「自由の門」と呼ばれているネットウォールを破るソフトを見つけました。初めてネットウォールを破った時、封鎖されていた文章をみて不思議に思いました。小さいころから中国共産党の教育によって騙されてきたため、一度に真相を目の前にしてもとても信じられませんでした。それはまるで、自分は両親の実の子供ではないと他人に言われた時の気持ちと全く同じでした。そして、自分だけではなく、他の人も初めて真相に触れた時、自分と同じような気持ちだっただろうと思います。それからは、真相を知るにつれて段々とわかってきて、以前に真相を見た時に感じた拒否感も説明することができます。中国共産党の邪悪さはすでに人類が認知できる範囲を遥かに超えていたのです。想像できないだけで、共産党にできないことはありません。生きたまま臓器を摘出するなどの悪徳行為に、私は未だに驚愕を隠すことができません。
こうして、私は毎日のようにネット封鎖を破って新聞や報道を読み、すぐに法輪大法が無罪を着せられたことを知りました。しかし、当時の私にはまだ理解できないところがありました。なぜこの人たちは死をも恐れずによい人になろうとしているのでしょうか。その時は権力と利益といった基準で世の中のすべてを図ることでしか説明がつきませんでしたが、これで法輪大法を理解しようと思っても全く理解できません。法輪功が正しすぎるからです。今、思い返してみれば、昔の自分はなんと滑稽で、無知だったのでしょう。小人の心で君子の度量が理解できるはずなどあり得ないのです。
この問題を解決したいと思い、明慧ネットを開いて、大法の師父のすべての書籍を一通り読み終えて、やっと心の中のすべての疑問を解くことができました。そして、気づかないうちに修煉し始めたのです。最初のころは修煉すべきかどうか怖がっていましたが、ついに心を決めました。この混沌とした世の中で、お互い傷つけあうか、純粋な善良に同化するかの二択の中で、私はよい人になることを選びました。
修煉し始めたころ、周囲の人々に真相を伝えるとき、以前学校で起きたことを思い出しました。担任の善税先生はとても優秀な教師で、「相手に合わせた話し方をするように」と教え、こうすることで、社会の中で損をしないと言われました。ある日の授業で、彼女の様子が明らかにおかしく、なぜか動揺していました。彼女はベーカリーで買い物をしている時、ある人に会ったと話しました。その人は法輪功修煉者で、彼女に真相を伝えました。身だしなみがとても清潔で、紳士的で、話も論理的で教養のある人でした。そして、その修煉者の話はとても正しいと先生が言いました。しかし、「みなさん、彼の話は正しいですが、信じないでください」と我々に言ったのです。当時、この言葉を聞いてなんとも思いませんでしたが、今考えてみると、どこかおかしいと感じます。あの先生が言うことを解説すると、「正しいことは信じず、却って間違ったことを信じるように」とでもいうのでしょうか。共産党の洗脳手段は実に恐ろしいものです。
修煉していくにつれて、「よい人」に対する理解も深まり、なぜ人は道徳というものを学ばなければならないのかについてはっきりと分かるようになりました。大法の師父は、トラブルに遭った時は、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」ようにしなければならず、それだけでなく、自分に悪い点はなかったかを探さなければならないと、我々に教えてくださいました。そして、自分もこれを目標に努力しています。師父は『轉法輪』の中で「修煉するにあたって、具体的なトラブルに対処する時、誰かに辛く当たられたりした場合は、たいてい次の二つの状況が考えられます。一つはおそらく前世にその人に対して何か悪いことをしたのかも知れません。あなたは、『どうしてわたしにこんなひどいことをするのだろう?』と言って心のバランスをくずすかも知れませんが、しかし、あなたはなぜ前世でその人にあんなことをしたのですか?『あの時のことは知らない。現世は前世と関係ない』とあなたは言うかも知れませんが、そういうわけにはいきません」と説かれました。。初めのころ、人に怒鳴られたときは、無理に我慢しました。そして、回を重ねて、自然に気にしなくなったのです。この時、自分は精進できたのだと分かり、言葉に表せないほど嬉しく、とても気持ちが軽やかに感じ、他人の自分への態度なども気にしなくなりました。しかしながら、他人の態度が悪いのは、依然、自分の態度が悪かったことのお返しであると思うと、なぜ以前の自分は態度が悪かったのかと後悔しています。法輪大法を修煉しなければ、私は永遠にこのように考えたりしなかったでしょう。
修煉の中で、素晴らしい体験や心の変化などはたくさんありますが、それほど重要なことではありません。一番大切なのは、この特別な時期に真相を知り、素晴らしい未来を選択したことが何より大事なのです。最後に、読者の皆様に幸せが訪れることを願っています。