―――マスコミ人の修煉体験
文/北京の大法弟子
【明慧日本2015年10月26日】この数年、私は修煉の道で何度もためらって足踏みしていました。従来からの悪い習慣と、自我を放下できないために前に進めなかった時に、明慧修煉園地が放送した「中国大陸大法弟子の修煉体験交流会の交流文章」を聞いて、私は心強い限りでした。そして、中国の修煉者のためにこのような素晴らしい交流方式をお作りくださった師父に感謝いたします、大法の修煉に手本はなく、それぞれが歩む道は違っていても、このような交流を通して、多くの啓発と力添えを受け、特に迫害停止の呼び掛けや内に向けて探すこと、旧勢力の按配を否定すること、法に沿って法を理解すること、法を実証することにおいて、私は得るところがきわめて多かったのです。
何度も交流会への参加を逃しましたが、今日、私はついに自分の惰性と利己心を突破してこの10年来の修煉体験を書き、師父にご報告申し上げます。不足のところがあれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いいたします。
一、師父について返本帰真する
1996年に、同修である母は大法に出会い、長年の根深い病気が治り、生命が救われました。母は私たち一家の一人一人に『轉法輪』という貴重な本をくれました。その頃の私は高等芸術学院の学生で、だれもが知っているテレビドラマを撮影しており、功成り名を遂げることを考えており、一日中、常人の名、利、情の浮き沈みの中におり、自力で抜け出すことができないでいました。『轉法輪』を読んで素晴らしいと思いましたが、結局のところ、常人の名利心を放下できず、大法の修煉に入りませんでした。
1999年、大法が迫害に遭い、母は一日中泣いていました。母は中南海に陳情に行った後、不当に拘束され、私は国務院陳情事務所に行って母の行方を調べ、その後、家族と協力して留置場に母の引き渡しの要求に行きました。その時、私はまだ正式に修煉の道に入っていませんでしたが、大法に対して私は比較的はっきりした理解がありました。ドラマを制作していた時、ある人が大法の悪口を言っていたので、説得しに行き、大法のために真相を伝えました。まだ私に少しの正念が残っていることを師父はご覧になり、師父は私を見捨てられなかったのかもしれません。
2002年、母が路頭に迷う生活を終えて北京に帰って来た後、師父は母親の夢の中で私に修煉を勧めるよう悟らせました。その頃の私はすでに常人の名・利・情の中で苦しい思いをして疲れ果て、「これは私が望んだ生活なのか?」と、私はよく自分に問うていました。外部の者から見れば、私には人がうらやむような家庭と優れた経済条件があり、多くの人が憧れる職業についていました。その職業とは俳優なのですが、私自身は楽しいと感じたことはなく、いつもむなしく月日を過ごしているような感覚があり、常人の中で得られたすべては私に少しも満足感を与えることはありませんでした。また、自分の将来に対する不安、情に対する執着などで、私はいつも疲れていました。そんな時、師父は母親を悟らせ、私に返本帰真への道を勧めるために、母が涙を流して私に話した時、私も泣き出し、その夜、「大法修煉の道を歩み、師父について返本帰真する」と誓いました。
二、自我を修めて取り除き、度量を大きくして穏やかに人をもてなす
師父は「皆さんは覚えていると思いますが、私はいつもこういうことを皆さんに話しています。つまり、大法弟子は如何なることをする時でも、まず相手を考えるべきです。あること、ある情況が起きた時、それが非常に小さいことであっても、私の第一の念はまず相手を考えるのです。それがすでに自然となったので、私はまず相手を考えます」[1]と説かれました。
常人の中において、私は何事においても優秀で、すべてが順調で、若いころから名が知れ渡っていたので、高慢な性格になり、好き放題に行動し、エゴが強かったのです。その頃、私には友達がいませんでした。2001年に私はテレビ局に入社し、舞台裏の仕事を始め、映画界から抜け出しました。
2002年に修煉を始めたばかりの頃、自我を捨てることに対して他の人たちが深い経験をしていることをいつも考え続けているうちに、大法の修煉を通じて心性を向上させることの素晴らしさを実感しました。ある時、テレビ局で番組の編集をしていた時、当時まだ熟練しておらず、丸一日かけて、夜の8時過ぎまでかけて、やっと終わりそうだと思った時のことだったのですが、いつも私と仲の良い同僚Cも残業しており、Cは後向きに私の後ろに立っており、自分の資料をパブリックスペースへアップロードする準備を始めました。「コンピューターの記憶領域がいっぱいで、期限の過ぎた資料を削除しなければならない」と、Cが技術を担当している同僚に電話で話しているのを聞きました。Cが話し終えると、目の前にあった私のパソコンのモニターが真っ白になり、今まで作業した内容が全部消えてしまいました。私はとても焦り、Cに聞いてみると、なんと、Cが削除したのは私が今まで作業していた番組の資料だったのです。慣例に従えば、一般的には放送が終わった番組資料だけしか削除できないのです。そのため、技術を管理していた同僚とCは何も言えなくなりました。なんといっても、私の資料が全部消えてしまったのですから。この時はCもさすがに慌て、当直をしていたネットワーク管理者に頼んで資料を復活させようとしましたが、すでに削除してしまった資料を復活させることはできませんでした。
私は激しく憤慨し、「私があなたの後ろに座っていた時、あなたが私にちょっと尋ねてくれれば、こんなひどい事にはならなかったはずだ」と、思いました。この日の仕事は無駄になり、そして、それは番組の放送に間に合わせるために連日連夜はじめからこの仕事をやりなおさなければならないことを意味していました。私は非常に怒りました! Cの顔を見ることもせずに、事務所に駆け戻りましたが、「こんなに恨みをつのらせてはいけない」とも心の中で考えました。
Cとの関係は良かったので、Cを責めることはしませんでした。少し考えた結果、技術を管理する同僚に電話して、誰がCに誤った指示を出したのか問い詰めなければならないと思いました。一回目に電話した時は通じず、「私は修煉者なのに、こんな電話をかけてもいいのだろうか?」と、私は心の中でぼそぼそと言いました。しかし、受話器を置くと、やはりまだ怒りが収まらず、また受話器を取って番号を回すと、今度は通じたのですが、誰も出ませんでした。私の怒りは少しおさまってきました。私は母に電話し、今回のことを話しました。「同僚はわざとやったわけではないし、起きたことは偶然ではないのだから、これは試煉ではないかと考えられないの?」と、母は言いました。さらに「大法修煉者はどんな時も良い人でなければならず、どんな事に遭っても他人のことを考えなければなりません」と、母は言いました。母との電話を切ると、私の心はだいぶ落ち着いてきました。すると、技術担当の同僚が折り返し電話して来て、「一晩中残業だったので寝てました」と、言いました。その時には私は完全に落ち着いており、技術担当の同僚を責めようという気持ちはなくなっており、反対に技術担当の同僚の休息を邪魔してしまったことに対して申し訳ないと感じ、今回のことを持ち出すことはありませんでした。
受話器を置いた後、誤って私の資料を消してしまったCは今、さぞかし私が怒っているだろうとやきもきしているに違いないと思い、私は急いで作業室に戻りました。その日は真冬で、とても寒い一日でした。寒風の中、Cが作業室の扉の前を歩いているのが遠くから見えました。私は足早にCの前に歩いて行き、「気にしないで、あなたがわざとやったのでないことはわかっています。もう一回最初からやり直さなきゃならないと思うでしょ? 練習だと思ってやるから大丈夫ですよ」と言いました。するとCは泣き出し、口の中で続けざまに「ごめんなさい!」と言いました。不思議なことに、私たちが作業室に入ると、ネットワーク管理者が走って来て、「どうしてかわらないが、資料が復活した」と、私に伝えに来たことでした。資料は完全な形で復活していました。私がパソコンのモニター上で編集したタイムコードのデータは、きちんとモニター上に並んでいたのです。
私は心の中でこの上なく感動し、作業室を飛び出し、心の中で何度も師父に感謝しました。私がこの関を乗り越えたことを師父は見ておられ、私を励ましてくださったのだとわかり、心性の関を乗り越えた素晴らしさを初めて実感しました。人を思いやり、他人の過ちを理解できるということは素晴らしいことでした。心の中で全く新しい次元が私の目の前で展開し、自分が向上したことを強烈に実感し、他人を思いやることは慈悲心の表れであることを理解しました。
その後の修煉で、この時次元が向上した後の素晴らしさを私はいつも実感することができました。2002年以降に私と知り合った人はみな、私が楽観的で、すすんで人を助ける度量の大きい穏やかな人間だと感じており、以前の高慢で好き放題に行動するようなイメージはすでに跡形もなく消え去っていました。
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
[4] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[5] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」