文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年10月27日】私は修煉を始める前、普段の生活や職場でも、同僚や親戚、友人に良いことがあると、心から喜んであげることができ、心のバランスが取れないようなことはありませんでした。修煉後は当然、他の同修と比べ、嫉妬心が小さくてよく修めることができると思っていました。師父は説かれています。「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[1]
最近、私は修煉体験交流会の文章を明慧ネットに投稿しました。翌日、その文章を持って同修の家に行き、交流したところ、同修は「私もちょうど交流文章を書きたいと思っていますが、どのように書けばいいのかわからず、悩んでいます」と言いました。私はどのようなテーマで書きたいのか尋ねたところ、ちょうど私が書いた文章とおおよそ同じ内容でした。私が自分の文章を読んだ後、同修は非常に羨ましがって、「この文章はとても良くできていて、地元にあなたのような人がいて本当に幸運です」と言いました。その時、私は我を忘れて、有頂天になってしまいました。
3日後、同修は自分の交流文章を私の妻(同修)に明慧ネットに投稿するよう頼みに来ました。仕事を終えて帰宅した後、私は妻に同修の文章を読んだ感想を聞かれました。私は言葉を濁して「まあまあだね」と答えました。自分の文章には及ばないと思いました。
翌日、同修は我が家に携帯のSIMカードを持って来て、その時に、自分の書いた交流文章について感想を聞かれました。私は口ごもりながら「まあまあよく書けていますよ。こんなにご高齢のおばあちゃんにしてはよく書けていると思います」と答えました。話し中、私は人を見下すような感じで、心の中では「私の文章はすでに、2篇掲載された。私よりよく書ける訳がないだろう」と思いました。
しかし数日後、明慧ネットを開いた時、同修の文章が掲載されているのを見て、私は愕然としました。その時、私は心のバランスがとれなくなり、やはり同修に嫉妬し、自分の文章が掲載されないことを不満に思いました。
その時、師父の説かれた法が頭に浮かんできました。「観念が違うと結果も違います。中国人の観念は人に嫉妬心を生じさせ、他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスがとれなくなります。こういうことが起きてくるのです」「ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[1]。 このことから、自分にも嫉妬心があると気付かされました。師父は今回のことで、私の嫉妬心を暴露させてくださったのです。私はそれを修めなければなりません。
まさに同修が言ったように、修煉体験交流会の文章を書く過程は自分を修め、次元を高める過程でもあります。文章が掲載されるかどうかは重要ではなく、全て自然に任せます。重要なのは、私の生命の最もミクロなところから、嫉妬心や歓喜心、顕示心、虚栄心、同修を見下す傲慢な心などを取り除くことで、さまざまな執着心は、本当に自分を高めることができます。
以上、私が修煉の中で悟ったことです。適切でないところは同修の皆さんのご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』