文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年11月7日】最近、私の身辺の同修たちに怠慢な状態が表れて来ました。常人の暮らしを求め、修煉者として三つのことを重視しなくなりました。「初心を忘れずに修煉して行けば、必ず正果を得ることができる」[1]と師父が言われた通りにできる同修がどれほどいるでしょうか? あれこれ修めてきて、結局常人の暮らしに戻り、「何が修煉だ」とか「何が人を救い済度することだ」と言って、気にしません。まず自分の幸せな暮らしを優先して金銭を追い求める姿は、常人と少しも違いがありません。
師父は「財産を放棄することは失の中の一面であり、それも比較的重要な一面であることは言うまでもありません」[2]と言われました。お金がまったくなければ、常人の生活ができませんので、修煉者は仕事をしてお金を稼がなければなりません。大法も私たちになるべく常人社会の形式に合わせるようにと要求しており、そこが他の法門と異なります。
しかし、修煉者が歩む道は変えられたものです。仕事にしても、生活にしても、修煉のために按排されたものです。生活に必要な金銭に対する要求は腹を満たす程度のものであり、常人社会での修煉に影響は及びません。もし仕事をしなくても生活問題を解決でき、あるいは家庭環境に余裕があれば、その環境を利用して時間を有効に按排すれば、もっと多く衆生を救い済度する事を行い、もっと三つのことに専念することが出来ます。こうすることも精進のうちです。私たちは仕事の中でのみ修煉することは求められていません。すべての修煉者は取り除くべき執着心に対して、直面する出来事が按排されていますので、どんな環境に置かれていても修煉が出来ます。
どんな執着心を持っているかは、日常生活の中から見つけることができます。家庭内の雑事も含めて、それらの中で修煉することが出来たら、良くない執着を取り除いて心性を高めることが出来るのです。
常人の生活を維持するためには金銭が必要です。しかし金銭を得るために、常人のように金銭を追い求めなければならないことはありません、分かりやすく言うと、真に修煉している人が金銭面において困るようなことは按排されていません。金銭面で起きるすべての問題は、執着を持っているからです。執着をなくせば、全てが順調になります。また、修煉者が心の底で何を求めているのかはっきりと見えてきます。特に他の次元から見透かされています。
古から、金銭は虚しいものにすぎないというのは修煉界の従来の考えであり、金銭に執着するなら修煉が出来ないと見做しています。そのため、物質上の利益を放下し、常人が求めるものを一切放棄して、山や寺院に入って修煉します。大法の要求は他の法門と違い、どこでも学ぶことができ、自由に参加することが出来ます。しかし大法の要求はもっと高く、厳しく、道を得られるかどうかは自分自身の修煉にかかってきます。もしも、常人が求めているものを求め、常人が欲しがるものを追求して、常人が放下できないものを修煉者も放下できなければ常人と何の区別があるでしょうか?
真に修煉する人が、心の底から金銭への執着心を放下できた時、ひたすら修煉して心性を高めようとする心しかもたず、師父の言葉に従い、全ての常人の執着を放下すれば、金銭など物質的なものは次第に増えていきます。これらの財産は追い求めずに得たもので、手足を動かさずに稼げた金銭ですが、却って少なくありません。とても裕福なのです。
修煉の中で真に三つのことを人生の最も重要なこととして扱い、心掛けている人は真の修煉者であるはずです。ならば金銭面において何のトラブルも生じず、金銭や財物はひっきりなしにやってきて、追い求める必要はありません。心性の向上につれて執着心を放下できた時に、さらに金銭や財物が増えていきます。
ある人々が、ある法門の修煉を始めました。この法門は常人の中で幸せな生活を送り、人生を満喫しながら修煉する意欲が満たされました。佛法の奥義を探求することも出来るので、具合のいい修煉法門だと認識していました。しかし厳密に言えば、このような考えを抱えている人は、最も修煉し難いのです。これは貪欲です。なんでも手に入れたがり、全て自分に有利なものを重く見てしまいがちです。ですので真に物質への執着心を放下しなければならない時に、取捨選択が出来ず、何も放下できません。そのため最終的に生命が落ち着ける場所がどこなのかは、自分で選んだものになります。
言うまでもなく、大法に出会えることは万古のめぐりあわせであり、代々の輪廻の中で結ばれた縁です。師父は慈悲に今日の私たちを作り上げて下さいましたので、修煉の中で、絶え間なく執着が表われてきても、取り除く機会は必ず与えられています。しかし時間は限られています。最終的に修煉者の基準に達しなければなりませんので、自分を厳しく律さなければならず、怠慢にしていてはなりません。金銭を追い求める行動は名、利、情への執着心を引き起こしますが、それを感じることすら出来ません。甚だしきに至っては、師父の教えを金儲けの口実にしてしまいます。金銭の誘惑は、修煉においてある程度上達できた修煉者を、常人の中に引きずり込むのです。
金銭を求める執着を取り除くことが大切だと理解できているなら、仕事、地位、成就すること、名声、評判等などを重んじてはなりません、これらはすべて常人が追い求めているもので、修煉者が取り除かなければならないものです。功名成就は常人が追い求めるものであって、どんなに立派な人間になっても、やはり常人なのです。しかし、何もしないまま、ぼた餅が落ちてくるのを待ってるだけというのではありません。心性を高めなければ家にいたままでは何も得られません。病を抱えている人のように、自分を修煉者と見なすことが出来ていないため、病根を断つこともありません。
真の成功は、師尊の教えに従い、三つのことをきちんと行い、得道して、より多くの世人を救い、大円満をすることです。すべての按排は修煉に始まり偶然な事はありません。いかなる環境で表れたことも、全て人心を取り除くために按排されているものです。
次元の限りがありますので、間違っていればご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』