文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年11月8日】先日、香港に行った時に同修に会うことができててとても嬉しかったです。同修たちは高齢にも関わらず、忙しく真相のビラを配ったり、真相を伝えたり、新聞を配ったりなど人を救うことを行っていました。それを目にして本当に感激しました。私はそのとき「香港の同修、ご苦労様です。もし大陸にも香港のような環境があったら、どれほど喜ばしいことだろう」と思いました。その数カ月後に、中国で江沢民を告訴するブームが世界中を震撼させるような勢いで巻き起こり、現在中国の環境もかなり良くなりました。しかし中国の同修には修煉を始めたときのように、勇猛邁進して精進する意気込みが欠けていることに気付きました。
一、楽観的でない中国の状況
私は身辺の同修たちの状況を知っています。この10数年間、大多数の同修は紆余曲折を経て、最も邪悪な環境の中を歩み、大変辛い思いをしました。しかしある同修は徐々に大法弟子の状態を失い、人を救うことを一切行わず、修煉状態は常人そのものです。ある同修は数度に私はって迫害されたため、安定を求め、二度と迫害されたくないという考えが生じました。このような考えは実は恐れる心なのです。ある同修は、金儲け、世界旅行、もっと良い暮らしを手に入れることに専念するようになりました。一度このような人心を黙認してしまえば、この関を突破するのはかなり難しくなります。様々な人心が表れてきて、まるで1999年7月20日に戻ったように、大法が共産党に誹謗中傷されたため、様々な人心が晒される状態に陥ります。実はどんな状況下に置かれても、どんな口実があったとしても、人を救い済度する最後の正念場で同修たちのそのような状態はすべて迫害を認めることに等しい結果になります。
修煉には如何なる怠慢を正当化する理由はありません。修煉は人を救い済度することであり、遊び事ではありません。10数年来、同修は極悪非道の共産党の横暴な迫害の中を歩んできました。どんなにつまずいても起き上がり、共産党を恐れたことはなく、ずっと衆生を救い済度する道を歩んできました。最後のこのときに必ず自分の修煉の道を見極めて、自惚れや、油断、舞関心などの消極的な人心を引き起こしてはなりません。常人社会の動きに左右されて、歓喜心を生じさせ、修煉が終結して自分が円満成就できるという人心を顕示してはなりません。
真に修煉するすべての大法弟子は、一歩ずつ自分が行うべき事を行わなければなりません。実質的なことは全部師父が行われており、私たちはこの世の表面にある物事を動かすだけなので、怠慢出来る余地はありません。上手く行うことは私たちの責務であり、良く行うことが出来ないのであれば、もっと努力して、全ての執着を取り除いてこそ、はじめて基準に達することが出来ます。己の事を基準として、自我を肯定し、自己満足し、自己陶酔するのは全て良くない観念と思想業力が妨げているのだと思います。
二、香港の同修が落胆した話
先日香港の同修と少し交流をしました。同修は「法を正すことに対して、あまり自信を持てない。周りの同修たちも同じ考えだ」と話しました。それを聞い私はとても驚きました。同修を責めているのではありません、法理に照らして交流することによって、師父の法を正すお手伝いがもっと上手く行えるのです。
身辺の中国の大法弟子はこの問題について、交流したことがありませんでした。しかしこの話は私たちが軽々しく話すテーマではありません。考える余地もありません。法から、師父の法を正すことはすでに成功したことが分かりました。現在は衆生(大法弟子も含めて)をどれくらい救えるかの問題が残されているだけなのです。
師父が「いずれにせよ、なぜ法を正すことが必ず成功すると言ったのでしょうか? 始まりから終わりまで、法はすでにできており、生命を救っているだけだからです」[ 1] と説かれました。
同修の発言は何を指して言っていたのかは具体的に分かりませんが、最後までに救うことができた人数が少ないことを憂慮して発した言葉だったのかもしれません。救えた衆生の数は法が正すことが成功するか否かを表しません。常人が救われたいかどうかはそれぞれの選択であり、修煉者が修煉したいかどうかも自分の選択なのです。ですので、大法弟子が発した言葉がいきすぎたら、神も驚かれます。
しかし、1人がこのように考えてしまえば、その周辺にいる人も影響を受けます、皆が法の内包について誤った悟りを持っていたら、とんでもない大問題になります。
三、外に向けて求める
最近、多くの同修が政治の動きに関心を持つようになり、新唐人テレビの番組を観ています。新唐人テレビは常人を対象にして立ち上げたプロジェクトであり、修煉者は番組に執着してはなりません。私たちには大法があり、それ以外にまだ何か求めたいものがあるのでしょうか。全ての人心を放下しなければなりません。如何なる人心も、あなたが怠慢、油断、猟奇する心、恐れる心を固執する理由になりかねません。
まとめ
再三考慮した結果、この話を書き出すことにしました。最後になればなるほど、自分も含め、全ての同修は自分の修煉の道をもっと良く歩まなければなりません。このすべてを大切にし、師父の法を正すお手伝い、この神聖な事に常人の観念や人為的な考え及び如何なる修煉の範疇以外の思考を加えてはなりません。人間は神仏の按排を知ることはできません。私たちの責任はよりもっと多くの衆生を救うことだけなのです。
次元に限りがあり、不適切なところがあれば、慈悲なるご叱正をお願い致します。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』