【明慧日本2015年12月10日】(明慧ネット記者河北報道)河北省永清県の法輪功学習者・韓振巨さんは、2003年3月に唐山開平労働教養所へ連行された。その後、保定高陽労働教養所へ移送させられ、迫害を受け死ぬ寸前まで追い込まれた。その後、再び唐山開平労働教養所に戻され、2004年5月15日に迫害のため亡くなった。
元気だった頃の韓振巨さん |
今年7月、韓振巨さんの妻の彭俊花さんが、迫害の首謀者・江沢民を告訴した。検察機関に本案を精査し、被告人の裁判をするように求めた。そして法律に従って被告人の職権濫用の罪の追及を求め、不当に国民の信仰の自由の権利を犯した罪、不当に拘禁した罪、不当に捜索した罪、誹謗中傷し人を陥れた罪、故意に人を傷つけた罪、故意に殺人した罪、刑務所の中の人を虐待した罪などの多くの罪名で責任を取らせるよう求めた。
江沢民は法輪功への迫害運動を自ら巻き起こし、1999年6月10日に江沢民個人の意志で恐怖組織をつくった。それはナチスの変形組織のようで「610弁公室」と名付けられた。1999年から現在に至るまで「610弁公室」は「真・善・忍」を堅持する法輪功および善良な法輪功学習者に対し、名誉上の中傷、経済上の妨害、肉体を消滅させるといった犯罪行為を実行した。「打ち殺しても自殺したことにせよ」という人権を破壊した政策により、法輪功学習者は16年間にわたり、ありとあらゆる多くの拷問を受け迫害された。生きたまま 臓器を摘出され、この迫害により多くの人が亡くなった。16年間に及ぶこの残酷な迫害によって、1億人を超える法輪功学習者の家庭は悲惨な目に遭った。拘束され、家財を没収され、罰金を受け、拘禁され、労働教養され、不当な刑事判決を受け、過酷な拷問により死亡、身体障害者になり、生体臓器狩りなど何百もの拷問・迫害の手段により、何世帯もの家族を破滅させ、一家を没落させ、家族を四散させた。
62歳の善良な農婦の彭俊花さんは「私の一家が遭遇した迫害と夫の迫害死の事実は、この過激で残酷な迫害の中の小さな一例に過ぎません。しかしこれが、被告者が20近くの『刑法』を犯した犯罪を証明したものです。下記に供述したことは事実に沿ったものであり、迫害に加わった組織と個人についても触れています。私は今の所はまだ起訴しないことにしています。なぜなら、その人たちもこの迫害の中の犠牲者で、利用された道具だからです。ですから、彼らには、まだ救われる可能性があるのです」と供述した。
以下は彭俊花さんが供述した事実である
私は1997年末に法輪功を修煉しはじめた。法を得る前は頭痛、腰の痛み、全身の麻痺、無力感、家事ができない、薬を服用しても効果がないなど、体中に多くの病気があった。医者は「これは神経上の病気だ」と言った。私が煉功するとこれらの問題は、数日で解決した。どこも痛くなくなり、全身が若返り、どんな仕事も出来るようになった。
私の夫の韓振巨も煉功する前は全身に病があり、胃の病気、腰痛などの理由で毎日薬を服用していた。しかし彼が『轉法輪』という本を読むと、自分でも気がつかない内に体の病気が治り、痛いところがなくなった。そこで彼も大法を修煉することを堅く決心した。そして大法が人を良い人になるのを教えるものなので、修煉の道を確実に歩み始めた。いつも師父の教えて下さった「真・善・忍」を基本として良い人になるための努力をした。道徳の高い人になって、なんでも他人の事を優先して考えられる人になった。損をしても我慢し、町中の知人に困難なことがあり、助けを求められれば常に一番乗りで、名乗り出ていた。田畑が他の人に一部を使われたり、踏まれたりしても気にせず、村では誰もが知っている良い人になった。夫と親しい人はみんな夫が正直で善良で、誠実で人を良く助け、本当の意味で勇気をもっている人だと知っていた。
1999年7月20日に迫害が始まった。村の派出所の人が私ともう一人の同修の鄭書雲さんを、一緒に車に乗せて派出所まで連行した。不当に9日間留置所に入れられた。捕まっていた間、派出所の警察は師父の仏像を足元に置いて、私たちに踏みつけるよう命令した。釈放される時、村政府は3000元の罰金を私たちから取り上げた。そしてもう一度村へ帰ってから、さらに1000元を支払ってから家に帰れた。
1999年7月20日の迫害開始の時から、村の派出所はいつも人を派遣して毎日私の家にきて家事の邪魔をした。ある時は朝に、またある時は夜に、更には真夜中に来るといった感じで、平穏な家庭は夢のようになった。子供はいつもおびえてしまい、正常な生活ができず、毎日警戒しなければならなくなった。後には特別な日・敏感日になると邪魔をしに来て「まだ修煉するのか、やめないと上の方に訴えるぞ」などと脅した。
私の夫の韓振巨は1999年に誠実に、真心を持って政府に法輪功への迫害を伝えたところ、永清県の留置場に1カ月くらい入れられ、不当に2500元を取られた。
1999年10月1日、夫が再び北京へ法輪功への迫害を訴えに行くと、永清留置場に約半月間拘禁された。派出所の所長は、私の家に来て現金1200元を脅し取ろうとした。夫を北京へ迎えに行くために使うと言いながら、手元には証拠となる書類がなかった。
ある時、夫は河北省・永清県・劉街郷渠頭村で法輪功への迫害を伝えているとき、警官たちに連行され、3日間拘禁されてから釈放さた。
2000年末、夫は自分の安全を顧みず、もう一度北京へ法輪功への迫害を訴えに行った。しかし結果は社会秩序を乱したなどの罪名で廊坊市・万庄労働教養所で2年間の労働教養処分になった。
夫を不当に拘禁したのは、廊坊市・万庄労働教養所・三大隊三班で、大隊長は王祥だった。三班管理班長は姚✕✕。労働教養所では強制的に2種類の仕事をやらせた。小豆を取り出す仕事と、サッカーボールを作る仕事のふたつだった。出来上がったものは、全て外国に輸出された。通常の労働時間は毎日朝5時に起きて、口を漱ぐ時間さえ無く、起きるとすぐに仕事をした。毎日3回の食事の時間は1時間以内で、食べ終わるとすぐに働き、夜中の12時にようやく休めた。与えられた目標に達しても残業を命じられ、適当な口実を見つけては、何日間も休まずに働かせることは日常茶飯事だった。労働教養所の人員たちの歌った「取り出しても取り出しきれない豆、作り終わらないサッカーボール、取り除けないほどの大量の虱(しらみ)、噛みしめても依然とわいてくる怒り」という歌からも内情が分かる。労働教養所が対外的に宣伝している「労働時間」は8時間から10時間だ。しかし所長が規定し政府が制定した「労働時間」は15時間だった。たまに夜の9時以降に所長が監視で見まわりに来るときがあり、そのとき隊長らはすぐに消灯させ、労働教養所の人員の衣食住は、全部同じ部屋の中なので、所長が立ち去るとまた働かせた。実際に各隊長らによって行われた「労働時間」は19時間に及んだ。
各大隊は皆「生産額」を競っていた。生産額はまた警察幹部の奨励金と連携していて、労働時間を延長するしか生産額を達成できる方法はなかった。夫がいた3班の20平方メートルの部屋は40人近くが生活していて、平均1台のシングルベッドに3人が眠っていた。夜小用に起きて、またベッドに入ろうとするともう居場所がなくなった。更にきわめて入浴する機会が少なく、体や服のしらみは多すぎて、掴み取り終えることができなかった。
窓は布団で塞がれていたため、部屋は臭く、衛生環境は劣悪で、まるで地獄のようだった。
このような苦役の迫害ときわめて劣悪な生存条件の下、警官は法輪功学習者に「転向」することで、減刑すると誘ったが、夫の心は終始変わらなかった。万庄労働教養所は夫を妥協させることができなくて、保定の高陽労働教養所に送って、更に迫害することにした。
高陽労働教養所は更に凶悪だった。昼間は強制労働をさせ、夜には眠りを許さず、電気棒で人を傷つけ、死人ベッドに座らせるなどの方法によって法輪功学習者を苦しめた。このような人間性をなくした迫害にもかかわらず、夫は粘り強く決して屈伏せず、そして何度も絶食して抗議した。このように労働教養所で2年間地獄の生活を送り、正々堂々と釈放されて帰ってきた。夫のずっと変わらない崇高な信仰に対して、家に帰った後に永清県・公安局一科の張振清と郷交番の警官が、度々家に嫌がらせをしにきたため、家で正常な生活ができなくなった。
2002年の中国共産党第16回全国代表会議の前夜に、郷派出所の何人かの警官が、突然私の家の中に押し入って来て、土地の悪人のように夫を拘束して県の洗脳班に拘禁した。いっしょに拘束された法輪功学習者は40数人だった。不法に拘禁してから16日間たってから、中国共産党第16回全国代表会議が終了したので、ようやく釈放された。
更に怒りを感じるのは、警官らが夫の信仰が堅いのをみて、なんと罪名を捏造した。夫がある法輪功学習者の家で「転向に反抗する罪」を共謀したと言って、再度労働教養をさせた。ちょうど帰ってから数日後の3月27日朝6時ごろにドアをたたく音が聞こえた。夫が開けようとしたところ、開けるのを待たず何人かの警官が、壁を乗り越えて入ってくるのが見えた。正門を開けると多くの人が入って来た。良く見るとそれらは本村の公安員の腾立声と永清県公安局の張××、郷派出所の白義如など5、6人だった。彼らは庭に入ると有無を言わせず、殴ったり蹴ったりして突進し、夫を強制的に車内に押し込んで連行した。私は阻止しようとしながら、理由をはっきり聞こうとすると、警官らはなんの説明もしないまま、私を付き飛ばした。そして私の息子と殴り合いをした。結果的に息子は顔に負傷した。後になって夫は、河北省・唐山市労働教養所へ連れていかれたのだと知った。
夫は2回の労働教養の後に唐山開平労働教養所に送られた。理由も証拠もなく迫害を受けることが、どうしても納得できず、そこで絶食して抗議した。しかし唐山労働教養所が乱暴に食べものを流し入れる方法で夫を苦しめた。このような場合でも夫はやはり屈服しなかった。仕方なく唐山の凶悪な警官は、再度、夫を保定高陽労働教養所に送り、更に残酷な迫害を行った。
高陽労働教養所の凶悪な警察が、60センチほどの太い棍棒で夫を打ち、体中傷だらけにした。そのため棍棒は何節にも折れた。夫を捕まえて空中に投げ上げ、夫は強く地面に打ちつけられた。また空中に投げて、また落ちて地面に打ちつけられ、何度も繰り返した。ある凶悪な警察が、レンガで夫の頭部を打った。気絶して何時間もたってようやく意識が戻ってきた。その後1人の警官は夫に対して「我々もお前が無実の罪を着せられたと分かっているが、上司がせよというから仕方がない」と言った。今回の迫害に参与した者は、高陽労働教養所の李大勇などがいた。
夫が高陽労働教養所で迫害されて、死にそうだという消息が家族に伝わって、家族は急いで労働教養所に駆けつけて様子を見ようとした。高陽労働教養所は責任を負うのを恐れ、急いで夫を開平労働教養所に戻した。私達の家族はこうして結局むだに往復し、打たれて息絶え絶えと、今にも死にそうな夫にすら会えなかった。
唐山労働教養所に戻った夫は、女子隊に連れて行かれ、女子隊のユダたちから順番に屁理屈や邪説を注ぎ込まれた。無理やり洗脳して、眠らせないことを強行した。 この種の精神上の迫害は、肉体上の迫害よりさらに残酷だった。 連続して一週間眠る事を禁止するという非人道的な迫害で、夫は精神がぼんやりとした状態になり、失神時に本心からではなく「三書」を書かされた。後からそれを聞いて、夫と同修はこの事を強く後悔した。 今回の残酷な迫害は、夫の心身に多大な損害を引き起こした。その後夫は一大隊で肉体労働をすることになった。
2004年4月、「専管隊」内の法輪功学習者は、全面的に断食することで迫害に抵抗した。 4月25日、私の夫は再度断食した。 4月29日早朝に、悪徳警察の李義は夫をトイレ内の人から見えない場所に呼んで、手で夫の首をしめて窒息させ、数分後やっと手を放した。 夫は宿舎に戻ってから9時頃に、突然あえぎ出し呼吸を乱した。労働教養所の医者の王洪利が駆けつけ、夫の背中を叩いて叫んでも、もう声を出さなかった。彼らは夫を病院に送った。 後で現場にいた人が漏らした情報では、夫は病院へ送られる途中でもう呼吸が停止していた。
唐山開平労働教養所と高陽労働教養所の長時間に渡って実施された、いろいろな残酷な迫害は、夫の心身に大きな損傷をもたらした。「韓振巨の死は、正常な死亡である」というのは言うまでもなく、凶悪な警官達が自分らの犯罪を覆い隠すための嘘だった。
2004年5月14日に私達は突然唐山開平労働教養所からの通知を受け取った。夫が病気で危ないと言うので、労働教養所に駆けついたら、労働教養所はすぐに会わせてくれず、翌日になってから家族に「韓振巨が突然に全身を痙攣させ、心臓病で死んだ」と嘘を告げた。警官らは私をどこかわからないころへ連れて行った。そこのある部屋で、二度と目を開けることの無い夫を見た。私はその時、身も心も悲しみで痛んだ。私が夫の服をめくると、背中に大きい青紫色のあざを目にした。 労働教養所の人は悪事を働いたのでびくびくしていた。真相の暴露を恐れて、3000元の弁償をくれ、死体を慌ただしく火葬した。このように夫は、勇、張振清の手によって、家の中から理由もなく労働教養所に拘禁されて、無残にも迫害をうけて死に至らされた。
夫は「真・善・忍」の佛法修煉と、道徳の高い人をめざしたために、江沢民の死刑執行人群団の残忍な手法で殴殺された。天はこのために涙を流した。2004年の5月15、16日に夫が火葬され出棺する時、永清県では突然雷が鳴って、空からは大粒の雨がふった。これは真理を勇敢に堅持した夫の死に対しての哀悼であり、同時に彼を見送っていたのだ。
唐山収容所および永清県610弁公室の于勇、公安局张振清一味は、賊のように常にびくびくしていた。三圣口(三聖口)の趙甲巨一味は、ひそかに法輪功学習者が私の家に来て弔問をしていないか監視して、労働教養所内のやり口が暴露しないかと恐れていた。しかし法輪功学習者たちは彼らの残虐さを無視して、迫害により死に至った夫への哀悼用の対聯と花輪を供えた。 張振清、三聖口郷政府などの群団は怒りのあまり、ちょうど私の家で草を刈り、手伝ってくれていた杜玉鳳さんと湯得秀さんを永清県留置場に拘束した。
告訴の法的根拠
1、私と私の夫は信仰を堅持して、公民として合法的に陳情に行くため上京した。これは公民の権利であり、それをでっち上げの罪名で不当に労働教養、不当に洗脳、不当に留置場に連れて行った、被告人の管理下の責任部門は『憲法』第36条「公民は信仰の自由の権利を有する」、第35条「公民は言論、出版、集会、団体をつくり、パレード、デモをする自由がある」第37条「公民の人身の自由は侵犯されず、公民の人身の自由を不法に拘禁、不法に剥奪、制限することを禁ずる」第41条「公民は国家機関の委員に対して、提案、批判を出す権利がある」などの法律を犯した。
2、中国政府の締結した『世界人権宣言』第18条「誰でも思想、良心と宗教の信仰の自由の権利がある」第九条「いかなる人であっても任意に逮捕、拘禁を実行してはならない」『国際公約』第19条「誰でも意見を発表、主張する自由を有していて、いかなるマスコミの間、国の間を通じて情報を求め、情報を受けることと伝達することが出来る。口頭、書面、印刷、芸術などのあらゆる形式、あるいはいかなるマスコミをつかっても良い。これは被告人の不法に公民の宗教信仰の自由を剥奪した罪、職権を濫用した罪、私情にとらわれて法をまげた罪、不当に拘禁する罪」を犯した。
3、被告人の管理下にある犯罪グループは、夫を6回拘禁し2回労働教養した。このような行為は『刑法』第251条の規定に違反し、被告人は不当に公民の宗教信仰の自由を剥奪した罪を犯した。そして『刑法』第397条の規定は被告者の職権濫用罪を構成した。『刑法』第239条の規定は、被告人の非法誘拐罪を構成した。『刑法』第238条の規定は被告者の不当拘禁罪を構成した。『刑法』第243条の規定は、被告者の相手を誣告して陥れる罪を構成した。
4、唐山労働教養所、高陽労働教養所は、夫に信仰を放棄するように強要し、彼に対して残虐な酷刑を行い、『世界人権宣言』第五条「いかなる人でも残虐な酷刑、あるいは残忍で非人道的、侮辱的な待遇、刑罰を与えることは許されない」を犯した。『刑法』第248条は被告者の刑務所内人員の虐待罪を構成した。
5、唐山労働教養、高陽労働教養の非法警官は、夫に「転向」させるという目的を実現するために、各種の残虐な酷刑手段を採用した。夫の体が迫害により、衰弱していることをはっきり知っていながら、夫を苦しめて死に至らせたことは、皆故意に殺人を犯した行為で、『刑法』第232条の規定を犯して、被告人の故意殺人罪を構成した。彼らがわざと私の夫の体を傷つけた残虐な行為は、中国共産党の『刑法』第234条の規定を犯して、被告者の故意傷害罪を構成した。偽造の嘘で私の夫が、迫害されて死に至る事実を覆い隠したのは『刑法』第306条の規定を犯して、被告者の証拠偽造罪を構成した。そして『刑法』第3百97条の規定、職責を軽んじた罪をも構成した。
6、郷政府、郷派出所は、よく私の家に来て邪魔をし、許可なしに庭の壁を乗り越えて入ってきて、夫を連れ去り、そのうえ2度も罰金を取った。彼らのこのような行為は『刑法』第245条[公民の住宅は侵犯されず、不法な捜査、あるいは公民の住宅に非法に侵入するのを禁止する」規定により、被告者の非法捜査罪を構成して、非法他人住宅侵入罪も構成された。罰金の行為は『刑法』第274条の規定を犯して、家財を脅してゆすりとる罪を構成した。
7、夫は3つの労働教養所すべてで、過酷な労働を強制させられた。特に万庄労働教養所は最悪である。中国『刑法』の第244条には「暴力、脅しあるいは人身の自由を制限するといった方法で、他人の労働を強制するのを禁止する」と定められている。そのため彼らの行為は被告者の強制労働罪を構成した。
被告人の管理下の中央610弁公室は、法輪功を迫害する計画を直接省、市、県の610弁公室に伝達して妨害政策を推進した。「610弁公室」は違法機関に属し、国の政治を干渉する権利はなく、人の信仰に干渉できないのはなおさらだ。この機関は憲法・警察・検察・裁判所を制圧して、各部門に法輪功とそれを修煉する者を迫害するように指図した。被告人とこの機関の構成員は、すでにジェノサイドの罪を構成して、人道に反する罪、残虐酷刑罪などの罪も構成した。
すべての迫害に参与した部門と個人が犯した上記の罪の責任にかんがみて、これらは全て江沢民がもたらしたため、当人は彼らに対して当面は起訴せず、すべての責任をこの迫害の元凶「江沢民」に負わせる。最高裁判所、最高検察院が厳格に法律に基いて調査して、江沢民を処罰して公正を世に見せ、法律の尊厳を守ることを望む。
(注:法輪功学習者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)