文/大法弟子
【明慧日本2016年1月2日】 人間は豊かな暮らしがしたい、そして楽しく暮らすことを望んでいます。常人にとって、豊かな暮らしとは、何でしょうか?つまり、楽しいことや嬉しいことが多ければ多いほど、幸せだと思い込みます。逆に、苦しみが多ければ多いほど、つらいと感じます。なので、人間は名、利、情を追及しながら、自分の欲望を満たしていきます。人生の経験をすることで、これが現実的になります。
修煉者は常人から抜け出さないといけません。さもなければ、常人の観念は修煉者に深く影響されます。私はこれらの執着を放下したときの気楽さも体験したことがありますが、ずっと取り除いていてもまだ心の中では常人のような暮らしをしたい、羨ましいと憧れる気持ちがありました。自分の生活レベルが少しでも良い傾向になったり、良い兆しが現れると、思わず幻の世界に入ってしまうのです。しかし、時には打撃を受けたり、悲観失望したり、気持ちが落ち込んだりして、さらに消沈することもあります。このようなことを何度も繰り返してから、私は悟りました。これは外に向かって探しているのではないか、そして、人間の一面の名、利、情を満足させることを求めて、良い暮らしを追及しているのではないでしょうか。
すると、私はある疑問が浮かびました。常人の中の楽しいことを求めないとすれば、修煉者としての幸せがあるのでしょうか?私は自分のある体験を思い出しました。
2003年の冬のある晩、私は一人で道を歩いていました。新鮮さがなくつまらない生活、邪悪の弾圧の恐怖感、そして、未来に茫然と包まれている私。突然、心からある生気が満ちてきて、真っ暗な道から光が見えたような感覚が生じました。しかもそれがしばらく続きました。とても心地がよくて、快適でした。言葉で表現することが難しいですが、今まで自分が感じたすべての喜びを超えていました。このような感覚は何だろうとずっと思っていましたが、やっとわかりました。春です。春のような感覚です。どこから生まれてきたのでしょうか?それは大法の中で生じた一種の状態だと私は思います。
苦難に遭っているとき、大法の中から、幸福と楽しさのような状態を生み出すことが可能でしょうか?ミラレパ佛は修練の時、苦しくて自殺さえ考えたことがあります。しかし、修練の後期に入ると、彼は幸せな修練旅と、自分は必ず成仏すると話しました。そのとき、彼は苦難に対して、幸せを感じられました。それは修練の道で妨害がなくなったのではないでしょうか? 彼はますます精進し、最後まで修めることができました。
最近、私もこのように自分を律しているため、楽観的になり、精進しています。明日もまた楽しい一日だといつも思います。数年前に自分が苦しんだ時、どうしてこの問題に対して、このように認識できなかったのかと後悔しています。いつも浮かない顔をして、多くの機会を逃してしまいました。これからは、本当に大法を信じ、時間を無駄にしないよう毎日楽しく過ごしていきます。